驚愕の性能、Boox Max3 Lumi

 Boox Max3を今年買って、しばらく使ってkindleにがっかりして手放したのもう随分前のように感じる。あれから、もうBooxへの熱は冷めて、iPadだよ、iPad!と心に決めていたのに、ふとBoox Max3 Lumiのレビュー動画をあれこれ見てしまったら、なんとも心落ち着かず。やはりバックライトが付くのは素晴らしい。大画面だからこそ、ライトではなくて、自前のライトでないと明かりが不均一で読みにくいのだ。

 そして、結局昨日、Boox Max3 Lumiをポチッとしてしまったら、なんと今日届くではないか!仕事が早いSKTさん!そして、早速Kindle, Chromeをインストールして使ってみた。Kindleは少し期待したけれど、やはり今ままでの問題が解決せず、テキストの共有でエラーが出る。もうこれは最初から諦めていたので、問題ない。考え方を変えたのだ。Kindle画面をスクリーンショットに取り、そこにペン書きでメモを入れてEvernoteに画像として保存した方が記憶に残るし、研究ノートにも貼り付けができるではないかと発想を変えたら、そちらの方が良く思えてきた。やはり大画面で大量のテキストが表示されるのは読みやすい。

 Chromeはどうかというと、いつものJapan Timesのサイトを開いたら、思わず声が出た!速い!とにかく表示が速くなっている。もちろんiPadに比べたら遅いけれど、E-Inkの性能から考えたら、爆速と言えるほどだ。これはかなり素晴らしい。約10万円の買い物として、価値があるとの判断だ。これなら外付けキーボードを合わせて、ワープロがわりに使うことは十分考えられる。久しぶりに心がワクワクしてしまったデバイスとなった。

 

やっぱり、E-inkって目に優しい…。

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気がつけば大画面

 自宅の書斎ではiPad Pro 12.9インチがメインマシンとなっている。老眼もあるし、年齢もあり、だんだん小さな画面が厳しくなり、今まで持ち出し用でシステムノートがわりに使っていたiPad miniは手放し、その機能はiPad Pro 11インチがとって変わった。やはり画面が大きくなるとメモも書きやすい。MacBook Proも13インチモデルを使っていたが、16インチモデルに変えてから、没入感が増え、原稿執筆に使用頻度が増えた。

 職場でも自宅で使用しているiPad Pro 12.9インチを導入することができたし、研究室ではMacBook Pro 13インチモデルを使っているものの、研究費でDellの27インチモニターを購入して、こちらも大画面化した。気づけば大画面が当たり前の生活になっている。

 とうわけで、きっと、今度のiPhoneもPro Maxを買ってしまいそうな気がするのである….。

どうするiPhone 12 (Pro) (Max)

 さて、例年通りに新型iPhoneが発表されたが、心沸き踊らない。すでにリークされていた情報通りで、驚きがほとんどないからだ。確かに、カメラも画面の解像度アップも素晴らしい。それを考えれば、買いなのかもしれない。だが、10万円前後の買い物として、どうだろうか。カメラもすでに持っているし、そもそもこのコロナ禍では旅行にいけないし、旅行なら、ソニーのカメラを持っていく。大画面のMaxはいいなと思うが、普段の生活なら、iPadを見る時間の方が圧倒的に長い。

 もちろん、予約開始日までに考えて、結局ポチッとするかもしれないけれど、「どの機種を買おうかな?」の悩みではなく「買おうか、買わないか」の悩みになってしまったのは、なんだか寂しく、そして、Boox Max3 Lumiに心が傾いている自分が浮気者だと悔いてしまったりするのだ。

無駄の効用

 世間では大学の一般教育は無駄で、最初から専門教育をどんどんと教えて行くべきだという考え方が20年前くらいに主流だった。大学の教養部は改組され、学部の中に組み込まれていく。我が職場だけはその流れに抵抗したのか、乗り遅れたのか(笑)、いまだに教養部がある。ところが7,8年くらい前になると大学生の教養が足らないと世間から批判され、今度は形を変えて大学の教養部が復活してくる。

 大学の教養教育はすぐに役立つものではないし、もしかすると一生役にはたたないかもしれない。使えない英語教育に意味がないとか、文学部の学生に数学なんて必要ないという考え方もある。だが、教養とは、いや教育というのはそもそも無駄である。今でこそ医学や工学などの実学は徴用されるが、中世の大学なら神学や法学こそ学問であった。だから、実学が見下されていた時期もある。ところが現代になって大学は実学を身につける就職予備校のような機運が特に日本では強く感じる。学生には教養とは生きていくための糧であり、人間には無駄があってこそ、何かあった時の考えるヒントになると伝えている。例えば数学だって、数式を覚えることではなくて、数学的な論理・推理的考え方の練習の場所だ。経済学部の学生が生物を学ぶことは、もしかして商社に入ったときにバイオ関連の仕事をすることになった時にヒントを与えてくれるかもしれない。哲学は自分はなんで生きているんだろうという自分の存在を根幹から考えるヒントを与えてくれるかもしれない。

 かように、無駄だと思えることは、無駄ではないし、そもそもschoolの語源が「暇」というくらい、考えることは時間のあるものの特権でもあるのだ。考えてみればファッションだってそうだ。真っ黒のシャツとズボンさえあれば衣服の機能は賄える。だが、ファッションと称して、色も形も変えたものを身につけることに喜びを感じる。まさに無駄をエンジョイしているわけだ。

 さて、今日の本題である。私の自宅書斎の机の上には2台のiPad ProとMacBook Pro富士通のクアデルノが2台あり、さらにKindle PaperwhiteKindle Oasisがある。無駄なのだろうか?いや、それぞれの機能を別に使い分けている。バックアップとしても働いてくれている。無駄じゃない、無駄じゃない。。。。無駄は必要だ。。。その弁明のためにこんなに長い文を書いたのは秘密だ。

 

夜と朝の間に

 昔、美川憲一氏が「夜と朝の間に〜」と歌っていたのを思い出したが、私の原稿書きの時間は、まさにそれだ。今朝というか、夕べというか、夜の1時にガサゴソと起き始め、2時間ばかり原稿書きを行なった。遅々として進まず、うーんと唸るものの、昼間よりは集中力が高まる。きっと目から入る明かりや生活音のような情報が少なくなって、自ずから目の前のディスプレイに集中できるからだろう。鈴虫の音が心地よく響き始めたら、ちょっと一休みの合図なのかもしれない。

やればできるんだけどね

 授業で学生たちに、SNSに英語でメッセージを書きなさいという課題を出した。全員がTwitterInstagramをやっているわけではないので、メールで、それらしいメッセージを作成して、送っても良いとしてある。中には、実際にTwitterInstagramに英語で課題のメッセージを書いた学生もいる。授業では外国人であり、SNSの英語は省略も間違いも多いのだから、気兼ねせずに書きなさいと指導したのだが、これが、よくできるのである。もちろん、英語表現として間違ったものもあるけれど、十分にSNSでの意味は伝わるし、写真を添えることができるので、言語情報が補助的になり、さほど気にならない。学生たちも楽しんでいるようだ。

 情報発信の英語ができないと日本の英語教育が批判されるが、実は英語を使わなくても生きていける素晴らしい環境にいるわけだし、どうしても英語を使わなければいけないわけではない。母語を自由に使える幸せはどこかの国の少数民族が実質的に母語を剥奪されている状況と比べると雲泥の差と言えるだろう。ただ、どうしても英語を使えるようにというのなら、SNSから、少しばかりブロークンな英語で始めればいい。そうすると、意外に日本人の学生がしっかりとした英文を構成できることに驚くはずだ。できないのは英語ではなくて、「間違った英語を使ってはならない」という刻印づけをどのように取り払うかであろう。そのためにも、教員が自分で実際にTwitterを英語で呟くくらいしてもいいと思うのだが。。。。

 

私のTwitterはmansell1963です。

スズメバチ禍(閲覧注意!)

 今朝、いつものように庭掃除をしていたところ、偶然、スズメバチの巣を庭木の中に発見してしまった。このところ、スズメバチの死骸が庭に落ちていることがどうしても気になっていて、何か化学物質でもうちの周りにあるのだろうかと危惧していたところだったので、ようやく原因が分かった。

 さて、巣を発見して、一度は殺虫剤を手に撮ったものの、やはりこれは危険だと判断。早速ネットで業者を調べて、すぐにきてもらえるところを見つけた。午後にはきてもらい、駆除してもらったのだが、驚いたのはその値段だ。5万円だという。スズメバチは一番危険なので、料金も高いとのこと。流石に、値段を聞いて、じゃあ、いいですとは言えず、お願いをした。税金の10%を上積みして、5万5千円。なかなかの手間賃である。もっとも、業者の方々もある意味、命懸けの仕事なので、これは致し方ない。

 作業後に見せてもらった巣の写真がこれ。

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まだ、さほど大きくはなかったが、幼虫もいて、これが成虫になって、巣が大きくなっていたかと思うとゾクッとする。痛い出費にはなったが、大事に至る前に駆除できたことを良しとしなければならないだろう。