再び引退を考える

 少し前にApple Studio Displayを購入して使っている。Nano-textureという処理をした画面はまったく都言っていいほど反射がなく、不意に自分の疲れ果てた顔が画面にうつくることもない。音も素晴らしいし、余計なロゴもなく、すっきりしたインターフェースだ。

 M1のiPadをこれに繋げると、iPadOS 16からはStage Managerという機能が使用でき、このStudio Displayを拡張の外付けディスプレイとして使用できる。今、IPadOS 16のパブリックベータをインストールして、IPad Air5に繋げているのだが、これで十分だ。IPad Proの機能を使うようなこともしていないし、Mac さえ使う必要がないと感じる。Macと複数台のiPadを使い続けてきたが、一台のiPad Airとこのディスプレのセットでもういいかなと感じる。

 再びProからの引退を考える時期が来たようだ。

T2ブルーインパルス完成

 一時期中断していたT2ブルーインパルスのペーパーモデルを完成させた。この2週間ほどで、一気に追い上げて完成させたが、思ったよりも厳しい製作だった。大きめの部品の折り曲げで、色が剥げて、それをまたサインペンで修正しつつで、細部は決して綺麗な出来とは言えないが、まあ、全体的な雰囲気はあると思う。

 

我が家からの旅立ち(補足)

 昨日投稿した蝉の話の続き。見つけた穴は二つなのに、見つけた抜け殻は一つだったので、後の一つはどこだろうか、と思い描きながら今朝の庭掃除をしていたら、思わぬところで発見した。なんと玄関先のコンクリート壁の側面。こんなところから旅立っていったとは、いやはや、蝉も色々である。写真は今朝撮影した二匹の抜け殻。

 

我が家からの旅立ち

 夏になると蝉の声が喧しい。季節の変化を耳で知らせてくれる。さて、そのセミといえば鳴き声のみならず、抜け殻も目にする。今朝も我が家の木に一つ、抜け殻を見つけた。庭掃除の時に土に穴が空いていたのを見つけたので、もしかすると、蝉の幼虫が出てきて、木に登ったかもと、木を探したところ、一つ見つけたのだ。

 蝉の抜け殻は気持ち悪いという人もいるだろうか、私自身はめでたい気持ちになる。我が家の庭の土の中で眠り、成長し、そして庭の木から脱皮して巣立っていったのだ。我が家の仲間の旅立ちと思うと、めでたい気持ちにさえなる。

 コンクリートの大都会の中、タワーマンションでは味わえない別の意味での贅沢と言えるのかもしれない。

iPadOS 16に高まる期待

 前にも少し話をしたけれど、iPadOS 16ではM1搭載のIPadではStage Managerという機能が使える。これは画面のデスクトップでウィンドウサイズを変えたり、外付けのモニターに別ウィンドっを表示したりと、かなりPCライクに使える機能だ。iPadOS16のバブリックベータ版をIPad Pro 12.9インチモデルにインストールして、先日購入したStudio Displayを接続している。電源はStudio Displayから供給されるし、iPad はファンがないので、静音のPCとして気軽に使える。最初のベータ版では不安定だったものの、ベータ2では安定しているようだ。

 この機能で一番助かるのは、日経新聞のビューアーがそのまま見開きで、大きく表示できることだ。A4の見開きがそのまま画面に表示されるので、一目でニュースの見出しが閲覧できる。MacBook Proを接続し、Web上でも同じことを試したが、そちらは反応が遅く、とても使い物にならない。しかしiPad用のアプリを使うとその動きが軽快だ。

 iPadOS 16にはもう一つ大きな機能がある。それはiPadの表示スケールを変更できるということだ。今までは大きなIPad Pro 12.9を使っていても、その細かい解像度を有効に使うことができなかった。しかし、このOS ならMacBookのモニターのように解像度を標準化、拡大で選択できる。この差は大きく、12.9インチのサイズであるiPad Proこそ、その恩恵に預かれるし、むしろこのサイズを購入する大きな動機づけにもなるだろう。

 iPad Pro 12.9にMagic Keyboardをつけて、Studio Displayを接続すれば、MacBook Air M1と同じようなファンレス環境を楽しめる。M2 MacBook Airの話題が盛り上がっているが、このような使い方と便利さは、この秋の大きな話題になるかもしれない。

 なお、Studio Displayにケーブルで接続したiPadは相当に熱を持つ。かなりの負担をかけているのは間違いない。この利用法を考える人は、そこに留意する必要があるだろう。

今更ながらTwitterに驚く

 いつもはこのブログを覗く人が一人から二人と、かなりのマニアにしか愛されないこのブログなのだが(笑)、昨日のアクセス数が650を超えた。一体何事があったのかとアクセス元を調べるとTwitterとある。はてはて?そういえば、先日Studio Displayのリビュー記事をAppleの熱狂的なブログのところに投稿し、お暇ならこのブログも覗いてくださいと挨拶文を書いた。もしかしてと、その方のTwitterを拝見したら、昨日の投稿が紹介されたいたのだ。なるほど、それでTwitterの読者の方々が、「どれどれ」と覗いてくれたらしい。

 昨日のAppleの話では最近の若い方々は知らない製品名が色々出ていただろうが、どれも、みんな高価でローンやボーナス払いでないと買えなかった。Appleがその時代に戻って、エルメスやヴィトンのようにブランド化が確立化したと思えば、腹も立たない。

 Mac Portableの増設メモリが2MB(!)で20万円で購入したのは、ある意味自慢だったくらいだ。あれから、SE/30(就職が決まって購入), IIci(初ボーナスで購入)、 PB170(PowerBookシリーズ最上級マシン)PB180c(初めてカラーになったPowerBook), PBduo230(斬新の合体思考), PBduo 230c(待望のカラー化、だがトラブルも多かった), Quadra 700(IIciからのアップグレードキットを使って)PM8100(結婚後初めてのMac)、PB2400(娘の出産直後のどさくさに紛れて妻に購入許可を得る)PB3400(かなり重たかった)PBG3(速さに驚く)PBG4(発表時に、ジョブズが「セクシー」と表現したチタンモデル), アルミのPB12, 15, 17インチ(17インチはオーストラリアで購入)、iBook (インディゴ、ライム)、iBook (ホワイト)、iMac (首ながのデザインはMac史上秀逸のデザイン)、PowerMac G5(購入して24時間、ビデオ出力に使ったら、翌月の電気代が3万円に跳ね上がり、すぐに手放した)、PBProシリーズやらAirやら(もう多すぎてシリーズ覚えていない)、どれほどのApple製品と接してきたことか。そうそう、Newtonも購入したっけ。iPadも全シリーズ使ってきて、初号機はいまだに研究室にある。

 ただ、それでも手を一回しかつけなかった製品もある。Apple Watchだ。これはちょっとした哲学があり、時計だけはアナログのものしか身につけない。だからだ。

 こうして、昔語りをするのは老人の害でもあり、特権でもある。だが、昔話だけには止まらない。まだまだペースはゆっくりだが、Appleにははまっていくだろう。おじいちゃんの道楽は続く。

Apple製品の値上げに思う

 このところの円安でApple製品が値上がりし、ネットでは話題になった。ただでさえウクライナ問題や異常気象で食料品が上がり、エネルギー価格の高騰でありとあらゆる製品が上がっている。そして、その値上がり傾向はしばらく続くだろう。

 さて、Apple製品が値上がりして高価だと言われているけれど、考えてみると、Appleの製品は昔から高価なのである。いや、iMacの登場から、手に入りやすくなったけれど、昔のAppleはもっと高価だった。そもそもMacintosh Plusは軽自動車1台分だったし、私の最初のMacであるMac Portableは100万円近かった(購入時は80万くらい)。そのくせ日本語を扱うのに一苦労で、198000円の東芝ダイナブックにも敵わなかった。Macintosh fxも100万円近かったし、Appleレーザープリンターも100万だった。その後もPowerBook 170は70万だったし、Macintosh IIciも100万くらいで、デフォルトがその価格だったのだ。だから、Appleユーザーは研究者とか、お金持ちとか、物好きとか限られ人にしか使われなかった。

 でも、どうしてそんなに高くても欲しくなったか。独身時代にはボーナスは全て右から左でMacに消えていた私からすれば、「欲しかったから」であり、「便利だったから」ではない。心くすぐる感性が製品になり、ある意味の美があったからだ。

 iPodからApple製品はコモディティー化して、若い人でも使えるまでに価格も低くなった。だからiPhoneの今回の価格の高さに対する残念感とか、Studio Displayの価格はコスパに合わないという否定的な意見はわかる。しかし、である。元来Apple製品は「美しい」という言葉で買うものだと割り切った方がいい。装飾品であり、芸術品に効率を求めてはいけない。それはあくまでも「おまけ」だと考えてみよう。そうすると、こんなに便利なおまけをつけてくれてありがとうと、お得感を感じることができるではないか。あくまでも舶来品の美術品、そう考えてみようではないか。