言えるからこそ、言えない

 今はブログやTwitterで個人が思い思いの考え方や感想を簡単に書いて、それを公表することが出来る。ブログは20年以上前からあったが、書き込む人はそれなりのパソコンやインターネットに精通している人で、市井の人には敷居が高かった。
 だが、Twitterが現れてからと言うもの、個人が自分の考えをあっという間に世間に公表することができるようになったし、インスタグラムではそれを画像として表出することが出来るようになった。
 考えてみれば、一部の知的特権階級の握っていた思考表現をみんなが手にするようになったのだから、ありがたい話と言える。しかし、一部の知識人たちが世論を左右していたときには、知識がある程度の歯止めとなって、また、その意見に対して編集者などのフィルターがかかることによってある程度精錬されたものになっていたはずだ。
 ところが、今や精錬どころかまさに「生」の意見がネットで跋扈するところとなり、その毒に我々はさらされているとも言えるんじゃないだろうか。事件やせそうに対して意見を言うのはいいことだし、いろいろな考え方があるからこそ、様々な議論の発端となり、よりよい社会に出来るとも言える。だが、個人的な狭義の意見も多くあり、それが拡散することで極端な考え方も流布しているように思う。
 私もこうして、ブログにして愚考をつらつらと公表しているのだが、私のブログは幸か不幸か極々少数の人の目にしか入らないので、毒にも薬にもならない。とはいえ、いつこれが一人歩きするとも限らない。だからこそ、万民の目に触れてもいいと思う内容だけを、感情にあまり極端に左右されずに書くようにしている。簡単になにもかも表現できる時代だからこそ、自分の言葉に対する責任の重さがのしかかっているのだと痛感するからだ。
 パソコン通信で初めてネットというものにつながったときには、ネットの世界は宝箱のように感じ、公衆電話からでも時間があるときにはネットにつなげるほど夢中だった。だが、ネットがコモディティー化してしまった今、あのときのわくわく感が感じられない。きっと、目にしたくないものも増えてしまったからなのかもしれない。