話す力、書く力

 最近のニュースによると、日本人の学生は英語で話すことと書くことが不得手なので、そこをもっと強化するように英語教育を変えていかなければ、という論調が出ているようだ。英語教育がなっていない、文法中心で使える英語教育ができていない、と、もうかれこれ40年以上、同じような議論がなされている。

 さて、では、皆さんに問いたい。本当に日本の英語教育はダメなのだろうかと。例えば、話す力と書く力が足りないという。私は初年次ゼミをやっているが、そこでは日本語で書かせ、日本語で発表をさせる。なぜか。日本語が不十分だからである。例えば、レポートを何度も課題として出すので、私は学生からは厳しい教員らしい。だが、できないからこそ、練習させるのだ。レポートとして提出されたものの多くは感想文である。大学生になったばかりの彼らには原稿用紙に書くものは、感想文である。だが、それはレポートの体をなしていない。そこで、あれこれと指導する。何度も課題を出して、指導して、ようやく学問的なレポートとはどういうものかを理解していく。

 口頭での発表もさせる。最初に自己紹介をさせるが、内容が不十分である。また春学期の後半には論理的な応答をさせるが、それも論理的にはなかなかできない。だから、何をどうするのかをじっくりと指導する。

 彼らは日本語のネイティブである。実用的な日本語はできる。だがしかし、高等教育における「話す力」と「書く力」はまだまだ不十分なものが多い。ネイティブの日本語であっても、表出するということが苦手なのだ。

 ということは、「英語でできない」のではなく、英語だろうが、日本語だろうが、彼らには難しいのである。それは日本の教育システム上、彼らに表現をさせる機会を奪っているからと言えるだろう。表現されたものを評価することは大変に時間と労力とエネルギーが必要だ。彼らの書いたレポートを読む時には、こちらも集中して読むので、三人分を読んだら15分ほど休憩しないと、とても次の集中力が出てこない。それだけ大変なのだ。だから、忙しい小中高の先生方にはなかなかできないことなんだと思う。大学生なるまでは、ただ言われたことを覚えればいい、板書を写して暗記すればいい、先生に楯突くことは言ってはいけない、と受動的なことばかりを指導されてきて、さて、大学生になって、今度は主体的に振る舞えと言われても、彼らも困惑するばかりだ。

 話を戻そう。もし、中学生や高校生の親戚がいたら、英語の教科書を見せてもらってほしい。今の日本の中高の英語の教科書はかなりコミュニケーション志向だ。定型の挨拶を覚えるようになっているし、場面設定もされている。それをしっかり覚えれば、簡単な会話ならできるはずだ。だが…いっぽうで、語彙は少なく、学問的に使える英語力を養うためのしっかりとした英文法が足らない。今は昔と逆で、むしろ文法志向性が足りないとさえ言える。だから、学生たちに電子辞書でもなんでも使って、英文を日本語にしなさいと言っても、なかなかできない。Google翻訳に頼る学生も多いが、試験ではスマホの持ち込みができないので、結局うまく単位が取れない。

 英語で会話ができたほうがいい。そうみんなは言う。だから、会話力を高めようと。しかし…である。ポケトークのようにAIを使った翻訳デバイスがもう実用されているのだ。今更簡単な会話を覚えるよりも機械に頼ったほうがいいと言えないだろうか?簡単な英文だったら、google翻訳でわかるのだ。そんなことがわかっている若者たちに、さて、どうやって外国語を学ぶ意義を唱えることができよう。

 外国語は実用的な面だけではない。特に英語で金を稼ぎたかったら、最新の情報を読み解く英語力が必要だ。新聞の英語であり、論文の英語だ。それはとりもなおさず、ある程度の文法力が必要だ。名詞化構造が複雑な英文はgoogle翻訳を使っても理解できない。特に医療や科学的なものはそうだ。あるいは外国語には外国文化的な考え方が無意識に入り込んでいる。英語に「いただきます」はない。そういう認識が異なることを実感できるのも外国語学習だ。

 英語教育の実態をもう一度よく理解して、日本人として英語をどのように身につけるべきかを、よくよく考えてみる時に差し掛かっている気がする。