無駄の効用

 世間では大学の一般教育は無駄で、最初から専門教育をどんどんと教えて行くべきだという考え方が20年前くらいに主流だった。大学の教養部は改組され、学部の中に組み込まれていく。我が職場だけはその流れに抵抗したのか、乗り遅れたのか(笑)、いまだに教養部がある。ところが7,8年くらい前になると大学生の教養が足らないと世間から批判され、今度は形を変えて大学の教養部が復活してくる。

 大学の教養教育はすぐに役立つものではないし、もしかすると一生役にはたたないかもしれない。使えない英語教育に意味がないとか、文学部の学生に数学なんて必要ないという考え方もある。だが、教養とは、いや教育というのはそもそも無駄である。今でこそ医学や工学などの実学は徴用されるが、中世の大学なら神学や法学こそ学問であった。だから、実学が見下されていた時期もある。ところが現代になって大学は実学を身につける就職予備校のような機運が特に日本では強く感じる。学生には教養とは生きていくための糧であり、人間には無駄があってこそ、何かあった時の考えるヒントになると伝えている。例えば数学だって、数式を覚えることではなくて、数学的な論理・推理的考え方の練習の場所だ。経済学部の学生が生物を学ぶことは、もしかして商社に入ったときにバイオ関連の仕事をすることになった時にヒントを与えてくれるかもしれない。哲学は自分はなんで生きているんだろうという自分の存在を根幹から考えるヒントを与えてくれるかもしれない。

 かように、無駄だと思えることは、無駄ではないし、そもそもschoolの語源が「暇」というくらい、考えることは時間のあるものの特権でもあるのだ。考えてみればファッションだってそうだ。真っ黒のシャツとズボンさえあれば衣服の機能は賄える。だが、ファッションと称して、色も形も変えたものを身につけることに喜びを感じる。まさに無駄をエンジョイしているわけだ。

 さて、今日の本題である。私の自宅書斎の机の上には2台のiPad ProとMacBook Pro富士通のクアデルノが2台あり、さらにKindle PaperwhiteKindle Oasisがある。無駄なのだろうか?いや、それぞれの機能を別に使い分けている。バックアップとしても働いてくれている。無駄じゃない、無駄じゃない。。。。無駄は必要だ。。。その弁明のためにこんなに長い文を書いたのは秘密だ。