「ただいま」はI’m homeではないという意見は正しいか?

 昨日、Yahooを見ていたら、「ただいまをI'm home/I'm backと書いてある英語教材は詐欺」との記事を読んだ。書いている人は自分の海外体験で、nativeは、Hi, Dad.のように表現して、I'm homeなどと言わないから、というのが趣旨である。このように日本の教材はダメだ、出鱈目だ、ネイティブはこんなことは言わないという信仰は日本では根深い(笑)。

 ただ、ネイティブは言わない変な日本語英語というのは時に正しいが、時に正しくない。今回の記事はどうだろうか。言葉というのは誰でも使える道具だからこそ、誰もが様々な考え方や意見を言うことができる。ところが、我々のような研究者から言わせて貰えば、背景に隠されたメカニズムがあるのだと言いたくなる。今回の記事は半分は正しいが、半分は正しくない。センセーションなるに「詐欺」呼ばわりするのはいかがなものだろうか。

 まず「ただいま」という日本語表現の働き(これを「機能」という)を考えよう。この表現は自宅に帰ってきたときに、家人に対する挨拶という面がある。家に帰ってきて、家族に面と向かって「ただいま」というはずだ。帰ってきたことは自明のことであるのだから、これは挨拶以外にはありえない。この面で言えば、英語ではI‘m homeとは言わない。家に買ってきたことは自明であるし、挨拶という機能を果たす英語の相当表現はhiで間違いない。この時には、必ず誰かに告げる、すなわち直面する対人関係を前提とする表現の使い方になる。

 ところが「ただいま」には自分が帰ってきたことを知らせるための表現という意味があり、これは挨拶ではなくて、一種の通知だ。玄関先で家族に「今、帰ったよ」ということは珍しくない。あるいは独身の人はどうだろうか。誰かに通知することを想定して、あるいは自分が自宅に戻ったことを自分自身に告げる通知としての「ただいま」を使うことがないだろうか。おそらくは「ある、ある」と同意してくれる人が多いはずだ。その場合は、I'm homeと使うことができる。私の恩師はアメリカ人だったが、帰宅時に奥さんに自分の帰宅を告げる時に、Honey、I‘m homeと使うと教えてくれたことがるのだ。この場合は、対人関係でも直面する人を想定しない。今、この場に同席しない人を前提とした「ただいま」であり、それなら、I'm homeは十分に機能する。

 このように表現というものは誰に、どこでどのように使うかによって形式を変えることもあれば、表現形式を変化させずに広範な使用を許可する場合もある。まして、言語によってそのストラテジーは異なるのだ。言語のプロが編纂した教科書や教材であれば、それが会話モデルのような形で内包されて作られているはずだ。しかし言語の背面にあるメカニズムを考慮せず、表層的な事柄だけでセンセーショナルな言葉で非難することには、私は賛成できないのである。