夏休みの自由研究(読書感想文)

 夏休みといえば、とにかく嫌だったのは読書感想文だ。原稿用紙5枚の広大な空間が無限のように思えたのは皆さんも同じではないだろうか。嫌で嫌でしょうがないから、結局手をつけるのが夏休みの最終日になるなんてことも珍しくはなかった。

 そもそも読書感想文というのはどう書けばいいのか。それを教えてもらった記憶がない。先生はただ感じたままに書けなどというが、そこにどれだけの意味があるというのだろうか。そもそも書くことには何かしらの目的があるはずだ。いや、もしかすると、目的は書かせることではなくて、本を読ませることにあったのだろうか。書くというタスクを課さなければ本を読まない。だから読書感想文などという課題があったのだろうか。

 さて、束縛から解き離れて読書をするのはとても楽しい。この休暇中も本を何冊か読んだが、久しぶりの小説を読んだので、その「感想文」を書くことにしよう。

 

『魯肉飯のさえずり(ロバプンのさえずり)』を読んで

佐々木真

 本書は台湾人の母と日本人の父の間に生まれた桃嘉という女性の結婚生活を中心として、様々な二項対比を通して、人のアイデンティティーとは何か、自分の居場所とはどこなのかを問う作品となっている。その描写の中には、男女、内と外、優しさと無関心という対比的なものと日本と台湾の異文化、親子、普通の概念という相対的な価値観についてどう捉えていけばいいのかという著者からのメッセージが込められているように読める。

 物語の主人公、桃嘉は大学卒業直後に結婚し、専業主婦として1年を過ごしている。夫は社会的な目から見ればエリートでありハンサム、優しくて他人が羨むような男性だ。しかし、彼には浮気の兆候が見られる。桃嘉は疑いながらも、自分自身が納得できるようにそうではないと思い込むが、その心理的な無理が体調不良として現れてしまう。この夫の優しさとそれとは裏腹に桃嘉が作る料理や言動に心からの関心を寄せず、どこか「心ここに在らず」という雰囲気を醸し出すために、桃嘉も本当の意味では正直になれない。

 物語は桃嘉の母親についても時間軸を戻して進められる。台湾で知り合った日本人の夫についてきて日本語もわからない中、日本での生活を始め、桃嘉の子育てに苦悩する。多感になった年齢の桃嘉には台湾人の母親の話す日本語が恥ずかしいという外での顔と、本当は母親に素直になりたいという内の顔が見え隠れする。中学校受験を控えた桃嘉は面接を前にして、母親と衝突してしまうが、母親の面接での懸命な姿を目の当たりにして、異文化の中でクラス母の苦労を思い、大人への扉を開くことになる。

 桃嘉の母親は外国人として日本に暮らし、帰化したものの娘からも世間からも日本人ではないという苦悩を抱えていく。これは異文化に暮らすものであれば共感できることであろう。また桃嘉も日本と台湾のハーフであり、どこか「日本人」ではない、かといって「台湾人」ではないという狭間で揺れる。この揺らぎこそ、自分の居場所はどこか、自分とはなんなのかをつきけることになり、夫に依存する現状への桃嘉の苦悩にもつながるようだ。

 その後、物語は桃嘉が友人と台湾に旅行し、母方の親戚と話すうちに、自分の中の台湾、そして、日本に目覚めることで、初めて「自分らしさ」へと気づくが、これは桃嘉の母親の子育ての苦悩に対して、夫が「桃嘉の母親は台湾人でなければダメなのだ」という文言にも現れている。

 物語の初めの方で桃嘉の夫は桃嘉が作った魯肉飯を普通の日本人の口には合わないと言ってほとんど食べなかった。だが、魯肉飯こそ桃嘉の父親の好物であり、結婚をスムーズに進めた食べ物である。また桃嘉にしてみればまごうかたなき母の味だが、それを否定されてしまうことが自己の否定へと導かれているのだと読み解くことができる。ここでは普通というのは相対的なことであり、誰もが同じだと思うことは幻想であるとの筆者の考えが見えるし、それは全くその通りであろう。問題は自分の普通を押し付けることで他者を否定してしまいかねない可能性があるという危険性が示唆されているのではないだろうか。

 魯肉飯は台湾の家庭料理の代表だが、本作品の中ではロバプンと表記される。日本人にはルーローハンとして知られているものだが、ルーローハンは北京語の表現であり、ロバプンは台湾語の表現だ。魯肉飯が台湾を象徴するとともに、家庭の味、家庭の居心地、そしてその家庭の基礎となる親や、親の文化、そして母と父、そしてその文化が融合している娘は、どうやって両方の文化や考え方を融合していけばいいのかという苦悩が描かれている。

 物語の終盤で桃嘉は離婚し、実家に戻る。ようやく自分の中の台湾と日本の融合が自分自身を作り上げていき、それこそが自分のアイデンティティーであると気づき、前向きに歩き始めて、新たな出会いの可能性を示して本書は終わる。

 この物語は台湾と日本という異文化の狭間で揺れる娘と、外国からやってきて子育てに苦悩するその母の物語となっているが、問いかけるものはハーフや外国人にだけ当てはまるものではない。さまざまな価値観の中で揺れ動く我々一人一人も自分の居場所や自分とはなんなのかで苦悩しているはずだ。何が「普通」なのかと、普通でなければいけないという強迫観念に駆られる日本文化の中で、「普通」は普通ではないというコペルニクス的な発想の転換ができた時、初めて、我々は自分自身を評価して、居場所を見つけることができるように思う。

 本書は我々の生き方そのものに「それでいいですか」と改めて考えさせてくれる。あらゆる人に勧められる良書と言えるだろう。

 

『魯肉飯のさえずり(ロバプンのさえずり)』

温 又柔(2020年)

中央公論社