撤回の不思議と息苦しさ

 またもや政治家の発言が物議を呼んでいる。今に始まった事ではないとはいえ、国民としては脱力感を感じてしまう。不愉快に思う点は2点だ。

 まず、政治家の言葉が軽すぎる。政治家、それも大臣ともなればそれなりに言葉は重くなる。政治家のパーティーでの挨拶で、少し冗談を入れて場を和ませるつもりだったのだろうが、大臣は24時間、家庭の中以外では大臣なのだ。その言葉は意図はどうであれ、国民にさまざまに解釈されてしまう。そのリスクを感じないのだろうか。

 そして、陳謝して「撤回する」と言う。一度出てしまったことで、約束なり、考え方の表明であれば、撤回は可能かもしれない。しかし、問題化されるような軽薄な発言の撤回ということはあり得ないのではないだろうか。

 第二の問題は、どこでもかしこでも、録音がされていて、「言葉狩り」されてしまうことだ。昔なら、酒の席での、パーティーの席での発言だから、ある意味プライベートなものとされて、問題視されなかった。しかし、今はちょっとでも問題のある発言があれば、ニュースにしよう、揚げ足を取ろうという姿勢が見え隠れする。政治家や官僚に食事の後、お酒が入ったところを狙って取材して、問題発言を誘発するような気さえするのだ。誰だって聖人君子ではない。口が滑るところはあるだろう。だが、それが公の場であれば責めてもいいが、プライベートなところであっても許さない雰囲気はどうなのだろうか。

 何かあれば、誰もがスマホで写メを撮り問題行動を晒し、言葉に問題があれば晒される。なんだか一億総監視社会のような気がして、息苦しいと思うのは私だけなのだろうか。