納得できません、について考える

 最近、事件に関するニュースを読むと、逮捕された容疑者が「納得できません」と述べているとの報道が目立つ。誰だって、逮捕されて拘束されたら納得できるはずはない。そもそも自分で悪いことをしたという自覚を持てる人ならば、逮捕されて当然と思うか、悪いことをする前に自重するはずだ。「納得できません」と言う人は自分の価値観が全てであり、それに背くことや人がいるから危害を及ぼしても、正当化されると考えるのではないだろうか。

 世の中には犯罪行為とは関係なく、「納得できない」ことは日常茶飯事だ。だが、大人になるとはそのような不条理を受け止めたり、受け流していくことができるようになることであろう。昔から不条理に悩むことが多いからこそ、文学ではそれがモチーフになるし、共感もされる。「自分だけが、なぜこんな目に」、と思いながらも、「それもまた運命か」とブラックボックスの中に押し込めることで自分に納得をさせること、これもまた生きていくためにスキルではないだろうか。

明日は我が身

 昨日、帰宅途中で挙動がおかしい老人を見かけた。壁に手をつきながら、2、3歩進んでは、歩みを止める。いかにもしんどそうだ。そこで、思わず声をかけた。「大丈夫ですか?」と。そうすると、「大丈夫、大丈夫」との返答。そう言われてはそれ以上はできない。家を目指して再び歩き始めた。交差点で足を止めて、どうにもやっぱり気になって、後ろを振り返ると、先ほどの老人がいない。「大丈夫か」と思った瞬間だった。先ほどの老人が倒れたのが目に入った。すぐに駆け寄ると、近くにいた中学生の一人、駆け寄ってくれた。老人は「大丈夫、家はそこだ」というけれど、立てない。「家まで救急車で送ってもらいなさい。どうせタダだ」と言って、私は携帯から119番をした。考えてみれば携帯から緊急通報など初めてだ。ワンコールもしないうちに「事故ですか、病気ですか」との問合せ、救急からの質問に答えて、5分ほどしたら救急車が来た。後は救急隊員に任せて帰宅したのだが、その話を家族にしながら、「そういえば、今日は忙しくて、昼ご飯、買うのを忘れて何も食べてない」と言ったら、「他人のことより、自分の心配をしなさい」と怒られた。

 それにしてもこの暑さ、いつ自分が倒れてもおかしくない。みなさんもお気をつけあれ。

マスコミの不思議

 最近はテレビを見ていて、不愉快になってしまう。もしかしたら、正しく年齢をかさねて、老人になってきた証拠だろう。「そんな細かいこと」ということが気になるのだ。まず、刑事事件の被害者がどうしていつまでも顔写真を出されなければいけないのだろうか。どんな背景があろうと、非難されるべきは加害者で、被害者を責める必要はない。それなのに、被害者の写真があれば、どんなものでもと、小学生の時のアルバム写真までも入手して公開してしまう。しかも、ワイドショーになれば、それを何度も使う。肉体的に被害に遭った後に、さらに追い打ちをかけるように社会的な晒し者になる。果たして、そこに「知る権利」なるものが認められるのだろうか。そのくせ、政治家の判断では、表面を撫でるだけの扱いだ。パパ活などのゴシップネタでは突っ込むのに、選挙制度の増減ではさらっと流すだけ。そもそも人口が減少している国の中で政治家を減少させない理由がない。だが、視聴者がわかりにくいからと、避ける。わかりやすいゴシップばかり流す。それで国民はさらに考えなくなる。この国の国民を考えさせなくさせているのは、マスコミの影響が強いと思うのは穿ち過ぎだろうか。

 さらに不思議なのは、車の事故だ。なぜかベンツだけが、「ベンツが衝突しました」とブランド名を公表される。他のメーカーの場合なら、「自動車が…」と会社名は明かさないのに。民法はCMの関係があるのだろうが、それならベンツも同じ扱いをするべきではないか。どうもベンツだけを標的にするのは、視聴者がベンツを運転する人に対して抱く感情を代弁しているようにしか思えない(我が家はベンツには乗っていません(苦笑))。

3年ぶりの新幹線

 3年ぶりに新幹線に乗って大阪出張に行った。EDIX関西の視察だった。会場ではAIの進化に驚いた。数年前は、AIを使った英語の自動採点などは英検3級レベルだったが、今は英検の準1級の面接試験をカバーしている。流石にこの分野の進化の速さに驚く。

 今回、最も驚きだったのは、キャラクタがーが先生の姿に変わって授業をするというアプリだった。声や授業などは先生がライブで行うらしいのだが、そこにキャラクターが被り、先生は出てこない。どうしてこんなものが必要なのかと開発に尋ねたところ、最近は先生の顔をキャプチャーして、SNSなどで不適切な投稿があるので、それを防ぐ狙いがあるという。いやはや、大変な時代になったものだ。

Mac卒業になるのか?

 先週のAppleのWorld Wide Developpers Conferenceのkeynoteスピーチを見た。注目したのはiPadOSだ。いよいよiPadの使い心地がパソコンのようになってきた。ウィンドウの可変、複数表示、そして外部ディスプレイへの対応である。ノートパソコンのディスプレイだけが取れて、タブレットにできる、そんな感覚だろうか。すでにMicrosoftSurfaceではできているのかもしれないが、これができれば、パソコンはいらない。少なくとも日常の業務であれば、iPadに外部ディスプレイで十分である。

 MacBook Proのディスプレイの美しさに惹かれているが、これもApple のStudio Displayに変えれば、その方が美しい。さてさて、これからのデバイスの管理方法がさらに悩ましくなってきた。

ドイツ語、始めました。

 この季節になると中華料理屋には「冷やし中華始めました」の張り紙をよく見る。いよいよ夏の到来を感じさせる。冷やし中華といえば、名古屋に二回目に来た時に、冷やし中華にマヨネーズが添えてあるのを見て、びっくりした記憶がある。あれから30年弱、今ではそれが当たり前になってしまった。

 さて、冷やし中華ではなく、「ドイツ語の勉強始めました」が、私の張り紙である。ラテンをもやっているが、しばらくそちらよりもドイツ語への関心が出てきたので、NHKの教科書をkindle版で購入した。音声もダウンロードできるし、何と言っても便利なのは、iPadkindle版の練習問題をスクリーンショットに取り、そこに解答をapple pencilで書き込んでから、回答を見て、再び、Apple Pencilで丸つけができるところだ。この方法であれば、何度でもまっさらな練習問題に回答できるし、丸つけした後の解答も画像保存できるので、自分の学習記録になる。おかげで、今ではIch bin müde と言えるようになったし、Ich heiße Makotoとも言えるようになった。ドイツ語では二番目に来るのが動詞。これは身につけた。

 

「…が9割」の不思議

 本の広告を見ていたら、ある人が「話し方が9割」という内容と「聞き方が9割」という内容の本を出している。違う人ではなく、同じ人だ。その人に聞きたい。「話しかたと聞き方と、どっちが重要なのか」と。

 巷には「...が9割」というタイトルや、「...の力」というタイトルが蔓延っているように思う。これなら「力が9割」という本を書くとベストセラーになりそうだ。あるいは「9割力」でもいいかもしれない。キャッチーなタイトルは売るために必要なのだが、果たし、そこに踊らされていいのだろうか。

 ちなみに、話し方とかコミュニケーションの本の多くで、メラビアンの法則が誤用されている気がする。要するに非言語情報の方がコミュニケーションでは意味があるので、見た目とか、話し方を重視せよということなのだが、この知見を出したメラビアン自身「法則」とも言っていなければ、特定の実験下で得られた結果であり、実際のコミュニケーションでは応用できない旨を示している。それなのに、「メラビアンの法則」と一人歩きしている。まず持って、我々には「批判的に考える力」が必要であり「批判的思考が9割」と言えるんじゃないだろうか。