ドイツ語、始めました。

 この季節になると中華料理屋には「冷やし中華始めました」の張り紙をよく見る。いよいよ夏の到来を感じさせる。冷やし中華といえば、名古屋に二回目に来た時に、冷やし中華にマヨネーズが添えてあるのを見て、びっくりした記憶がある。あれから30年弱、今ではそれが当たり前になってしまった。

 さて、冷やし中華ではなく、「ドイツ語の勉強始めました」が、私の張り紙である。ラテンをもやっているが、しばらくそちらよりもドイツ語への関心が出てきたので、NHKの教科書をkindle版で購入した。音声もダウンロードできるし、何と言っても便利なのは、iPadkindle版の練習問題をスクリーンショットに取り、そこに解答をapple pencilで書き込んでから、回答を見て、再び、Apple Pencilで丸つけができるところだ。この方法であれば、何度でもまっさらな練習問題に回答できるし、丸つけした後の解答も画像保存できるので、自分の学習記録になる。おかげで、今ではIch bin müde と言えるようになったし、Ich heiße Makotoとも言えるようになった。ドイツ語では二番目に来るのが動詞。これは身につけた。

 

「…が9割」の不思議

 本の広告を見ていたら、ある人が「話し方が9割」という内容と「聞き方が9割」という内容の本を出している。違う人ではなく、同じ人だ。その人に聞きたい。「話しかたと聞き方と、どっちが重要なのか」と。

 巷には「...が9割」というタイトルや、「...の力」というタイトルが蔓延っているように思う。これなら「力が9割」という本を書くとベストセラーになりそうだ。あるいは「9割力」でもいいかもしれない。キャッチーなタイトルは売るために必要なのだが、果たし、そこに踊らされていいのだろうか。

 ちなみに、話し方とかコミュニケーションの本の多くで、メラビアンの法則が誤用されている気がする。要するに非言語情報の方がコミュニケーションでは意味があるので、見た目とか、話し方を重視せよということなのだが、この知見を出したメラビアン自身「法則」とも言っていなければ、特定の実験下で得られた結果であり、実際のコミュニケーションでは応用できない旨を示している。それなのに、「メラビアンの法則」と一人歩きしている。まず持って、我々には「批判的に考える力」が必要であり「批判的思考が9割」と言えるんじゃないだろうか。

プチリゾート

 ゴールデンウィークは仕事が通常であり、少しだけしか休めなかったが、この時期ならではの我が家のレジャーを行なった。ピクニック用の椅子付きテーブルを庭に出して、そこで夕飯を食べる。それだけである(笑)。ホットプレートを出して、煙の出ないバーベキューだ。夕方の風が寒すぎず、心地いい。Bluetoothスピーカーから小音量でBGMをかけながら、家族と他愛のない話で酒を飲む。庭の緑も心を落ち着かせてくれる。朝の庭掃除とはまた雰囲気が変わる。

 翌朝は、庭掃除の後、そのままのテーブルで朝食を食べた。娘のコップの中に虫が入り込んで、一騒ぎとなったが、それも庭での食事ならではだ。カラスもどこかに行き、風を耳と肌で感じながら食べるといつもの朝食もどこかのリゾートホテルのような気分にさせてくれる。蚊が出てこない今だけの我が家のプチリゾート気分である。

論語を読む

 中学や高校の頃、漢文が嫌いだった。レ点とか、一、二点とか読み下し文とか、訳がわからなかったからだ。ところが、一昨年あたりから、少し漢文に関心が出てきた。息子が受験の時に使っていた参考書をパラパラと開いてみると、面白いのだ。漢文はこうやって読めばいいのかと改めてみてみると、中国語なのだから、否定辞や動詞が先行し、次に目的語がくるのだから、考えてみれば英語と同じ。なるほど、英語だって、目的語にレ点をつけて、動詞にかえって読み下し、すなわち訳文を作っているではないか。もちろん漢文は中国語の古典だから、現代中国語とは異なるかもしれないが、中国語の文献を日本語的に翻訳しようとした試みに先人たちの知恵の深さを思い知ることができる。

 とはいえ、漢文がそれほど読めるわけでもない。そこで現代日本語訳がついている論語を読み始めた。日本語の訳文を読み、読み下し文を読み、漢文をみてみると、なるほど、特定の漢字には特定の文法的な機能があると見えてくる。なかなか面白い。

 「温故知新」は論語にある言葉だが、学生に意味を聞いたところ、「古いものを温めて、新しいことを知る」という回答が多く出てきた。読み下し文で覚える必要性がありそうだ。

キャンパスに戻る音

 昔から4月初めのキャンパスにはサークルやクラブ活動の勧誘の声が響いていた。ところが、一昨年のコロナ禍では大学のキャンパスから学生が消え、新入生が勧誘される姿も消えてしまった。昨年の春には対面授業が再開したものの、学生サークルの勧誘活動はなく、寂しい春の始まりだった。

 今年、それが一部戻ってきた。新入生を誘う上級生の声はいまだに自粛されているものの、音楽サークルによる演奏が昼休みに行われて、ちょっとだけバンド演奏を聴いた時には、これぞ学生の音、キャンパスの音だなと嬉しくなってしまった。一つの音や演奏に向かう若い姿は、おじさん(おじいさん)になった身には羨ましく、眩しいのであった。

人間失格

 太宰治の『人間失格』を読んだ。初めて読んだのは大学生の頃だったように思うから、40年近く経って、もう一度読み直したわけだ。読んでみるとあまりにも衝撃的だった。それは現代の誰にでも当てはまるからだ。主人公は自分を誤魔化すように道化をして相手に合わせるようにして生きてきた。その結果、自分の内面を表すことの怖さを感じて、脆くて繊細な綱渡りのような生き方しかできない。その弱さから女性にはモテるが、酒と女性に入り浸っても満たされることはない。世間では受け入れられず、自分も世間を受け入れず、次第に薬物中毒になって、病院に入れられ、「人間失格」の烙印を感じる。

 現代でもネット社会の中で自分を押し殺して、自分らしさを掴めず、ガラスのような内面で自分がわからない、自分の満たされる時間は、満たされる事柄が何かを求めてさすらう人が多いように思う。果たして、世間とか、人間として認められるとか、自分が人間であるとはどういうことなんだろうか、をこの作品は読者に強く訴えている気がするのだ。

 では、自分はどうなんだろうか。人間として、満たされているのか。あるいは世間で受け入れられいるのか。毎晩酒を飲み、その日の出来事を忘れようとする姿は、酒に溺れて身を持ち崩す主人公とどこが違うというのだろうか。もう一度、自分はどうしたいのか、どうありたいのか、どう生きた証を示したいのか。アラ還になって読む『人間失格』は激しく胸を突き刺すのである。

最後の50代

 いよいよ50代最後の年となった。振り返れば、50代は楽しいことよりも苦しいことの方が多かったように思う。「50にして天命を知る」とは論語だが、いよいよ自分のことがわかり、また少しばかり老後を考えるようにもなってきた。天命には、自分の定めも含まれているのかもしれない。そう思うと、自分のできること、できないこと、やるべきことが少しは見えてきたように思う。

 さて、この一年、50代の締めくくりがどうなるか。温かく見守っていただければ幸いである。