Pro仕様こそ遊び用という矛盾

 IPhone の新型も発表されて、無印とProの二種類が発表された。iPhoneはミニサイズを愛用しているので、このサイズがなくなったのは残念だが、きっと来年のこの時期、ミニが消える前に、もう一度IPhone 13 miniは購入するかもしれない。それだけmini は電話として常時携帯に向いている。

 さて、iPhone Pro はさらにカメラ機能が突出してきた。少し前の高級コンデジ並みの性能で、もうこれでいいんじゃないかというくらい。今はプロカメラマンもiPhone を使うらしいが、これだけ画像にこだわるのなら、それはむしろ写真好きのアマチュア向けとも言えるのではないだろうか。趣味というのは生産も、コストパフォーマンスも視野に入れず、「好き・嫌い」、「いい・悪い」の感覚の世界だ。そこに「この写真綺麗!」となれば、それは心に突き刺さるし、その機材が欲しくなる。無印のカメラもかなり良くて、SNS レベルなら問題はない。だが、もしも海外旅行に行くとなって、やっぱりそれなりに写真は残しておきたいとなると、Proの望遠も捨てがたい。こういう時に、本当のプロなら別にカメラ機材はもっていくだろうし、いくらなんでもiPhone だけでは仕事はしないだろう。むしろ、趣味人の方がiPhone proの手軽さと高性能に惹かれるはずだ。

 コロナ前にコンパクトデジカメを買ったのだが、結局どこにも連れ出すことができずに埃をかぶっていた。カメラはもうこの一台でいいとは思ったが、使わないものをもっていても仕方ないので、手放すこととした。むしろ、もっと毎日使うものに変えたほうがいいのではないかと。もしかすると今度は、その売却代金を原資として、スマホ機能がついたカメラを買ってしまうかもしれない(笑)。

Ferrari 126c シェイクダウン

 やっと3回目のFerrari 126cが完成した。今回は二種類の紙を使い、さらにボディーは艶出し用のトップコートを吹き付け、さらにタイヤとエンジン部分には艶消しのトップコートを吹き付けた。艶と艶消しのコントラストが出て、なかなかいい感じだ。さらに、今回から、サスペンションは爪楊枝に細いニクロム線を巻き付けて作成したので、かなりリアルな感じが出ている。今回のFerrariはいい出来になったように思う。

 





 

トップコートを吹き付けてみた

 ここでも紹介しているペーパーモデルだが、せっかくレーザープリたーで印刷して作成しても、色艶が出ない。そこで、プラモデルの艶出し仕上げ剤、トップコートを購入して吹き付けてみた。以外に艶が現れて、一部では鏡のような反射も見られる。色褪せの予防にもなりそうだ。遠目で見るとプラモデルにも見える。

 

3回目のFerrari 126C作製

 随分前から、レーザープリンターで印刷したFerrari 126cを少しつつ作っていた。途中、飛行機を作ったりと、間を開けていたが、先々週末、先週末を使ってかなりペースアップして作成した。今回は120mgと160mgの二種類の厚さの紙を使い分けているので、見た目もシャープな出来になっていると思う。

 

Python 始めました

 夏の初めは「冷やし中華始めました」の看板や暖簾が立つのだが、秋になると、「〜始めました」はなかなか見ない。もっと寒くなると「おでん始めました」とか「カキフライ始めました」などが見られるのだが、これはもう少し後になりそうだ。

 これまでにもSwiftやらScratchやらビジュアル指向のプログラミングに手を出してきたが、やはり、根が昭和のMS-DOS世代、文字でのプログラミングをする方がしっくりくる。コンピュータ言語でも自然言語でも実は、「何をどうする。どんなふうに」と言うのが大まかな情報であり、新しい外国語を学ぶことを考えれば、コンピュータ言語の方が活用などを覚えない分だけ、楽である。

 さて、還暦前の手習。どこまで行けるのだろうか。物になってもならなくても、この年でも何かにチャレンジしていくことを忘れないうちは、学生に何か言えることがある、そう思うのである。

M2 MacBook Airをメインマシンにした唯一の理由

 最近はiPadをメインにする話を続けてきたが、結局、大黒柱としてのシステムはmacOSということになり、それを扱うMacが必須となることを改めて認識した。

 そこで、これまで使っていたMacBook Proに代わって、M2 MacBook Airをメインとした。本当ならProの方が画面も綺麗で、さまざまな性能がよく、変えることは、むしろダウングレードに近い。だが、一つそれでもいいと思う理由があるのである。

 それはParallels Desktopで正式にWindows 11 Arm版を走らせることができるようになったということだ。これまではArm版のWindowsは評価版しか使うことができず、安定性に不安があった。しかし、正式なWindows 11 を購入して、そのアクティベーションコードの入力すれば、晴れて、心置きなく、Windowsが使えるのだ。

 これまでWindows 11を使うために格安のChuwiのノートパソコンを使ってきた。なぜ、そこまでWindowsにこだわるかというと、大学で授業に使用するMicrosoft Teamsのせいだ。これはmacOSやiPadOS版では制限があり、フルに使うにはWindows版を使わなければならない場合がある。それに対応できるようにWindowsを手元に置きたいのだ。しかも自宅や大学でどこでも持ち運べる環境がないと不安である。その点、MacBook Airなら軽く、持ち運びができる。

 ちなみに、ChuwiのセレロンCPUでYouTubeの4Kビデオで、体感的な速度比較をしたら、MacにインストールしたParallels Desktop版の方が早く、しかも無音。これは素晴らしい。おかげで、ChuwiのマシンはPythonの勉強専用マシンとすることができる。

 今回はMacBook Airの内蔵メモリを24GBにカスタマイズした。これでParallels上のWindows に8GBのメモリも割り当てられる。私には理想的な環境となった。

言葉の変化

 言語学者として、授業でも言語変化について説明する。言語というシステムを使う人間が変化するにつれ、そしてそれを使用する社会環境が変化するについて、言語は変化し続けるし、変化を止めない。理屈や理性ではわかっている。

 しかし、還暦前のおじさん(お爺さん)として、好き嫌いは別だ。そこは感情的な問題なのである。例えば、「予行練習」という言葉だ。これは「予行演習」が正確な表現である。予行演習と言って欲しい。

 最近耳にする「友達たち」もおかしい。単数は「友」であり、その複数が「友達」なのだから、そこに「たち」がつくのはどれくらい多いのか。ちなみに、これは「子供たち」と同じだ。単数は「子」、複数は「子供」なので、「子供たち」は冗長である。どうせなら、「子供たちらの群れ」ぐらいの表現もお目にかかりたい。

 面白いのは、時には逆行する変化も見られることだ。最近は「だいぶん」という表現を見る。これは「だいぶ」のことだが、てっきり「大分」という感じから、「だいぶん」が出てきたかと思ったら、「だいぶん」という表現の方が古いらしい。

 ちなみに、音の面で言えば、「〜を」と「お」は今では同じ発音だが、ワ行は基本的にw が子音で着くので、ゐ[wi]、ゑ[we]、を[wo]がオリジナルの発音だった。しかし、w音が脱落し、残ったのは「わ」だけになった。「お」と「を」の二つがあるのは、どうして?と、子供に聞かれたら、元々は発音が違っていたんだよ。でも文字は残っているのと、使い方も違っているよね、と答えてあげてほしい。