虐殺される

 今日のニュースで、札幌の住宅街に出没していたクマが殺された。熊にすれば、自分のテリトリーに勝手に入ってきた人間のせいで、食料も少なくなり、元々のテリトリーに入って、食べられるものを食べていただけなのに、殺されたのである。

 さて、問題は、何かというと、こういう時の報道に使われる言葉だ。ニュースでは、銃殺、駆除という言葉が使われている。北海道新聞のサイトでは、「ハンター猟銃で駆除した」だ。はて、もし、これが人間だったらどうだろうか。人間が住宅街に入り込んで、見知らぬ他人の畑の中に入り込んで、勝手にトウモロコシを食べる。その人間は凶器となる包丁を持っていたとしよう。

 まず、警察は出てくるが、「駆除」はしないし「銃殺」もしない。もし万一、警察と暴力沙汰となり、警察が発砲して命を奪うことになっても、「死亡」という言葉が使われる。すなわち、「駆除」、「銃殺」という言葉は、加害者側から見て、悪者を退治したのであり、加害者には何の落ち度もないという意味が込められている。更にいえば、駆除対象、銃殺対象は、自分たちと等位関係にはなく、自分たちよりも力のないものに使う。だから、相手が人間であれば、人間という等位関係が成り立つから、「駆除」は使わない。

 しかし、熊の側から見れば、これは一方的な理不尽な「虐殺」である。何の罪もなく殺される、被害者には何の落ち度もない場合には、「虐殺」という言葉が使われる。

 普段、メディアで何気なく見ている語彙でも、実はそこには、表現の送り手のイデオロギーが内包されているのだ。等位関係のある人間同士でも、特に世界的な紛争だと、陥落とか、制圧などという言葉で殺害行為が包み隠されてしまう。無意識に受け入れてしまうからこそ、怖いことでもあるのだ。