一緒に共有?

 先日の朝、妻とテレビを見ていたら、あるアーティストがコンサート会場で、「一緒に共有できて嬉しい」と叫んだ。これを見て、妻が「共有というのはそもそも一緒なんだから、意味が二重でおかしいよ」と言う。妻もパートで言葉に関わる作業をしているので、なかなか言葉には敏感なのである。

 そこで私は言った。「でも、リモートなら、別の場所にいて、同じ情報を同時に共有するから、別々に共有で、同じ場所にいれば、一緒に共有という表現はありでしょう。」そこで妻も、なるほど唸った次第。我が家では食卓でもなかなかアカデミックな会話が時にある(笑)。

 形式上の意味を考えるのが形式意味論であり、さらには語彙に内包される意味を考えるのが語彙意味論である。だが、意味論にはさらに連想的な意味やコンテクストにより派生される意味を考える語用論がある。さらに言えば、意味の解釈と表出をシステムとして考えるのが、私の専門領域としている選択体系機能言語学となる。言葉の研究が面白いのは、時代や状況によって受容される意味や形式が変化していくことに唸ることがあるからだ。ちなみに、「貴様」は今なら相手を愚弄する言葉だが、元々は尊称の言葉であり、今のような使い方は江戸時代後期からだ。

 さて、先ほどの「一緒に共有」のように同じような意味のものが組み合わされるものは、冗長(redundancy)と呼ばれる。例えば、「子供たち」は「子」と複数の「ども」と「たち」が組み合わさったものだし、英語でもsing a songはその例だ。反対に、矛盾するような語彙は組み合わせは可能だろうか。例えば、形式意味論や語彙意味論では、「白い」と黒い色をしている「石油」は組み合わせることは考えられない。「白い石油」とは言わないはずだ。あるいは「白い墨汁」はないだろう。ところが、「白いブラックサンダー」は実在すのである(笑)。これは語用論的な解釈となるだろうか。

 言葉は必ずしも論理的ではない面がある。言葉は道具であり、使う人間が必ずしも論理的ではないことの証だろう。