風よ、永遠に!

 今日のネットニュースで、大久保一久氏の逝去を知った。大久保氏は伊勢正三氏と一緒に「風」というデュオを結成して活動していたのだが、この「風」こそ私の一番好きなグループなのである。中学生の時にその存在を知って、カセットテープでサードアルバムを買ったのが最初だった。「3号線を左に折れ」のイントロがとても好きだった。その後、高校に入ってコンポを買ってもらってからはレコードで風のアルバムを揃えた。

 高校に入ってフォークギター部に入ってからは風のナンバーを友人と一緒にカバーして文化祭などで歌っていたものだ。これでも、若い頃はそんなこともしていたのだ(苦笑)。

 CDの時代となってCDでも風のナンバーを全て揃えて聞いていた。「海風」の渇いた音も大好きだ。あの頃の歌は歌詞が聞き取れていたし、言葉での感銘があった。おじさん、いや、おじいちゃん世代となった今でも、風の歌を聴けば、心は中学、高校の迷い、彷徨っていた頃に連れ戻してくれる。

 今日はずっと風のナンバーを流しながら、自分なりに大久保氏の冥福を祈りたい。

クレジットカード詐欺に引っかかる!

 前の投稿で、危うくネットショッピングの被害に遭うところだったと書いたが、実はすでに被害に遭っていた。前回の投稿のショップとは別に、すでに販売されていないスピーカーの組み立てセットが半額で売られていたので、ついついクレジットカード情報を入力してしまっていたのだ。それも1枚のカードでうまく通らなかったので、別のカードでも試してしまい、2枚のカード情報が漏れてしまったのだ。いくらカード情報を入力してもショッピングが完了しなかったので、「ま、いいか」と放置しておいたのだが…。

 一昨日クレジットカード会社から携帯に電話が入った。直前にそのカード会社からショートメッセージが入り「カードの使用が制限されました」とあったのだが、「きっと詐欺メッセージだろう」と無視している時だった。電話に出てみると、「xxxxで使用されましたか?」と尋ねられる。いや、そんなところで使った記憶はない。クレジットカード会社はいつもとは全く異なった使用パターンを発見して、カードが不正に使われたと判断したらしい。即刻そのカードは使用停止とし、カード番号も変更となった。違法な使用分については請求されることはないという。これで一安心…。

 だと、思っていたが、「そうだ!もう一枚のカードは?!」と不安が走る。早速そのカード会社に電話をして、不自然なカード使用がなかったかどうかを尋ねると「特に不自然な使用履歴はないですね」との回答。念のため、最新のカード使用履歴を尋ねると、「おいおい、今日カード使ってないよ!」と結果的にやはり不正使用が確認され、そのカードも即刻止めることとなった。

 いやはや、まさか自分がこんな被害に遭うとは思っていなかったのだが、自分が検索して、偽のショッピングサイトでカード情報を入力してしまうとは思ってもみなかった。物欲の代償というか、戒めである。ネットショッピングは信頼のおけるところでなければいけないという教訓となった。

危ういネットショップ

 以前使っていたガジェットがまた欲しくなり、ネットで探していると、あるネットショップで、あり得ないほどの格安で販売されている。いくら生産中止の商品であったも、この価格なら中古でも安すぎると訝しがりながら、思い切って問い合わせメールを送ってみた。商品のページに記載があった商品番号を書いて、これは新品なのかと。

 その直後、なんとなく詐欺かもしれないとそのショップ名で検索をかけたところ、どうも怪しいらしい。そして、その数時間後、もしかしてと迷惑メールフォルダを見れば(笑)、そのショップからの返信がある。驚いたのはその返答だ。その商品を紹介しているページのURLを教えろというのだ。こちらは商品番号を書いているのに、それから検索できないというのはどのようなショップなのだろうか。よしんばまともなショップであったとしても、商品番号からわからないとは信頼できないし、ましてやネットでの検索結果を見れば、とても注文はできない。もちろんそのメールに返信するつもりもなければ、そこでのシッピングはしない。

 ネットショップでの格安商品はやはり罠が多いと、改めて痛感した次第である。

FW-08を作成

 この3週間の週末で、いつものペーパークラフトF1を作った。今回はFW-08、でこのペーパーモデルシリーズの記念すべき第一作である。そのためか、部品数も少なく、設計図も非常にわかりにく(笑)。この後のシリーズでは別部品となっていくシートベルトもシートに印刷されている。いささかペースを上げて作ったせいか、少し雑になってしまったところもあるが、ご容赦いただいて、どんな感じか見ていただければと思う。

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今更ながら知るiPad Proの快適さ

 最近、Windows PCが一つ手元にあってもいいんじゃないかと思っていた。大学ではMS Teamsが授業のプラットフォームであり、ときにはWindows版にしかない機能も欲しくなる。そこでAmazonで格安のノートパソコンを見つけて購入し、しばらくの間使ってみた。なるほど、最近の中華製ノートパソコンは作りがしっかりしているし、価格比で考えれば使い勝手も悪くない。

 しかし、ネットサーフィンや少し長めの文章を閲覧していると、少し引っかかる感覚を覚える。画面の切り替えもどうしてもサクサク感が得られない。そんな後にiPad Proを使うと、それまでのストレスが嘘のように機敏に反応してくれる。なるほど、AppleiPad Proはそこらのノートパソコンよりも速いのだと宣伝していたこともうなづける。確かに快適だ。

 同じ世界に閉じこもっていると、それが当たり前になって、どれほど自分が幸せな状況にあるのかがわからなくなる。だから、時折外に出て、自分の置かれた状況を客観視することが重要になる。PCの世界も同じかもしれない。そんなことを学んだ後に、Amazonの返品システムを使い、「品質に満足できなかった」という理由でそのノートパソコンは返品させてもらった。

ワクチン接種2回目終了

 金曜日にワクチン接種の2回目を終えてきた。今回もほとんど待つこともなくスムーズに終えて、家に帰ってきて、一応帰宅後もおとなしくしていた。同年代の同僚たちから2回目の後もほとんど副反応がない話を聞いていたので、きっとそんなものだろうと思って、眠りについた。ところがどうも夜中にサーキュレーターの風が、冷たく感じ、体に悪寒が走る。この暑い夜に寒いというのも変な話だ。念のためと、明け方に熱を測るとなんと38度台になっている。副反応が出れば、若い証拠だなどとふざけた考えをしていたが、実際に副反応が出ると、いささか動揺する。この日は午後から学会のオンライン会議もある。困ったことだと思いつつも、食欲だけはある。朝は珍しくドーナツを食し、昼のソーメンと、いささかエネルギー源としての糖質を意識した。

 日中は38度5分を記録しながらもオンライン会議に出席する。熱のせいかzoomの設定がうまくいかず、急遽iPadのzoomで凌ぐ。なんとか1時間半の会議を終えて、夕方に熱を測ると39度に上がっていた。この日の夕食は頂き物の牛タン。本当ならお酒を片手に楽しみたいのだが、グッと我慢して、白米片手に食べる。家族は39度があって牛タンをそんなに食べる人はいないと呆れてしまう(笑)。

 日曜日の明け方から少し熱も下がり、微熱状態となって、夕方には熱は平熱になるのだが、今度は少しめまいを感じてくる。たったり、寝たり、体勢を変えると10秒近く目が回る。これも初めての経験だが、副反応なのだろうか。月曜日の朝、目覚めて体を起こしたときにはこのめまいはなかった。なかなかこの副反応というやつは複雑なようだ。

 熱が出て、副反応が出たということはワクチンは効いている。そんなことを体で実感した週末であった。

 

夏休みの自由研究(読書感想文)

 夏休みといえば、とにかく嫌だったのは読書感想文だ。原稿用紙5枚の広大な空間が無限のように思えたのは皆さんも同じではないだろうか。嫌で嫌でしょうがないから、結局手をつけるのが夏休みの最終日になるなんてことも珍しくはなかった。

 そもそも読書感想文というのはどう書けばいいのか。それを教えてもらった記憶がない。先生はただ感じたままに書けなどというが、そこにどれだけの意味があるというのだろうか。そもそも書くことには何かしらの目的があるはずだ。いや、もしかすると、目的は書かせることではなくて、本を読ませることにあったのだろうか。書くというタスクを課さなければ本を読まない。だから読書感想文などという課題があったのだろうか。

 さて、束縛から解き離れて読書をするのはとても楽しい。この休暇中も本を何冊か読んだが、久しぶりの小説を読んだので、その「感想文」を書くことにしよう。

 

『魯肉飯のさえずり(ロバプンのさえずり)』を読んで

佐々木真

 本書は台湾人の母と日本人の父の間に生まれた桃嘉という女性の結婚生活を中心として、様々な二項対比を通して、人のアイデンティティーとは何か、自分の居場所とはどこなのかを問う作品となっている。その描写の中には、男女、内と外、優しさと無関心という対比的なものと日本と台湾の異文化、親子、普通の概念という相対的な価値観についてどう捉えていけばいいのかという著者からのメッセージが込められているように読める。

 物語の主人公、桃嘉は大学卒業直後に結婚し、専業主婦として1年を過ごしている。夫は社会的な目から見ればエリートでありハンサム、優しくて他人が羨むような男性だ。しかし、彼には浮気の兆候が見られる。桃嘉は疑いながらも、自分自身が納得できるようにそうではないと思い込むが、その心理的な無理が体調不良として現れてしまう。この夫の優しさとそれとは裏腹に桃嘉が作る料理や言動に心からの関心を寄せず、どこか「心ここに在らず」という雰囲気を醸し出すために、桃嘉も本当の意味では正直になれない。

 物語は桃嘉の母親についても時間軸を戻して進められる。台湾で知り合った日本人の夫についてきて日本語もわからない中、日本での生活を始め、桃嘉の子育てに苦悩する。多感になった年齢の桃嘉には台湾人の母親の話す日本語が恥ずかしいという外での顔と、本当は母親に素直になりたいという内の顔が見え隠れする。中学校受験を控えた桃嘉は面接を前にして、母親と衝突してしまうが、母親の面接での懸命な姿を目の当たりにして、異文化の中でクラス母の苦労を思い、大人への扉を開くことになる。

 桃嘉の母親は外国人として日本に暮らし、帰化したものの娘からも世間からも日本人ではないという苦悩を抱えていく。これは異文化に暮らすものであれば共感できることであろう。また桃嘉も日本と台湾のハーフであり、どこか「日本人」ではない、かといって「台湾人」ではないという狭間で揺れる。この揺らぎこそ、自分の居場所はどこか、自分とはなんなのかをつきけることになり、夫に依存する現状への桃嘉の苦悩にもつながるようだ。

 その後、物語は桃嘉が友人と台湾に旅行し、母方の親戚と話すうちに、自分の中の台湾、そして、日本に目覚めることで、初めて「自分らしさ」へと気づくが、これは桃嘉の母親の子育ての苦悩に対して、夫が「桃嘉の母親は台湾人でなければダメなのだ」という文言にも現れている。

 物語の初めの方で桃嘉の夫は桃嘉が作った魯肉飯を普通の日本人の口には合わないと言ってほとんど食べなかった。だが、魯肉飯こそ桃嘉の父親の好物であり、結婚をスムーズに進めた食べ物である。また桃嘉にしてみればまごうかたなき母の味だが、それを否定されてしまうことが自己の否定へと導かれているのだと読み解くことができる。ここでは普通というのは相対的なことであり、誰もが同じだと思うことは幻想であるとの筆者の考えが見えるし、それは全くその通りであろう。問題は自分の普通を押し付けることで他者を否定してしまいかねない可能性があるという危険性が示唆されているのではないだろうか。

 魯肉飯は台湾の家庭料理の代表だが、本作品の中ではロバプンと表記される。日本人にはルーローハンとして知られているものだが、ルーローハンは北京語の表現であり、ロバプンは台湾語の表現だ。魯肉飯が台湾を象徴するとともに、家庭の味、家庭の居心地、そしてその家庭の基礎となる親や、親の文化、そして母と父、そしてその文化が融合している娘は、どうやって両方の文化や考え方を融合していけばいいのかという苦悩が描かれている。

 物語の終盤で桃嘉は離婚し、実家に戻る。ようやく自分の中の台湾と日本の融合が自分自身を作り上げていき、それこそが自分のアイデンティティーであると気づき、前向きに歩き始めて、新たな出会いの可能性を示して本書は終わる。

 この物語は台湾と日本という異文化の狭間で揺れる娘と、外国からやってきて子育てに苦悩するその母の物語となっているが、問いかけるものはハーフや外国人にだけ当てはまるものではない。さまざまな価値観の中で揺れ動く我々一人一人も自分の居場所や自分とはなんなのかで苦悩しているはずだ。何が「普通」なのかと、普通でなければいけないという強迫観念に駆られる日本文化の中で、「普通」は普通ではないというコペルニクス的な発想の転換ができた時、初めて、我々は自分自身を評価して、居場所を見つけることができるように思う。

 本書は我々の生き方そのものに「それでいいですか」と改めて考えさせてくれる。あらゆる人に勧められる良書と言えるだろう。

 

『魯肉飯のさえずり(ロバプンのさえずり)』

温 又柔(2020年)

中央公論社