プチリゾート

 ゴールデンウィークは仕事が通常であり、少しだけしか休めなかったが、この時期ならではの我が家のレジャーを行なった。ピクニック用の椅子付きテーブルを庭に出して、そこで夕飯を食べる。それだけである(笑)。ホットプレートを出して、煙の出ないバーベキューだ。夕方の風が寒すぎず、心地いい。Bluetoothスピーカーから小音量でBGMをかけながら、家族と他愛のない話で酒を飲む。庭の緑も心を落ち着かせてくれる。朝の庭掃除とはまた雰囲気が変わる。

 翌朝は、庭掃除の後、そのままのテーブルで朝食を食べた。娘のコップの中に虫が入り込んで、一騒ぎとなったが、それも庭での食事ならではだ。カラスもどこかに行き、風を耳と肌で感じながら食べるといつもの朝食もどこかのリゾートホテルのような気分にさせてくれる。蚊が出てこない今だけの我が家のプチリゾート気分である。

論語を読む

 中学や高校の頃、漢文が嫌いだった。レ点とか、一、二点とか読み下し文とか、訳がわからなかったからだ。ところが、一昨年あたりから、少し漢文に関心が出てきた。息子が受験の時に使っていた参考書をパラパラと開いてみると、面白いのだ。漢文はこうやって読めばいいのかと改めてみてみると、中国語なのだから、否定辞や動詞が先行し、次に目的語がくるのだから、考えてみれば英語と同じ。なるほど、英語だって、目的語にレ点をつけて、動詞にかえって読み下し、すなわち訳文を作っているではないか。もちろん漢文は中国語の古典だから、現代中国語とは異なるかもしれないが、中国語の文献を日本語的に翻訳しようとした試みに先人たちの知恵の深さを思い知ることができる。

 とはいえ、漢文がそれほど読めるわけでもない。そこで現代日本語訳がついている論語を読み始めた。日本語の訳文を読み、読み下し文を読み、漢文をみてみると、なるほど、特定の漢字には特定の文法的な機能があると見えてくる。なかなか面白い。

 「温故知新」は論語にある言葉だが、学生に意味を聞いたところ、「古いものを温めて、新しいことを知る」という回答が多く出てきた。読み下し文で覚える必要性がありそうだ。

キャンパスに戻る音

 昔から4月初めのキャンパスにはサークルやクラブ活動の勧誘の声が響いていた。ところが、一昨年のコロナ禍では大学のキャンパスから学生が消え、新入生が勧誘される姿も消えてしまった。昨年の春には対面授業が再開したものの、学生サークルの勧誘活動はなく、寂しい春の始まりだった。

 今年、それが一部戻ってきた。新入生を誘う上級生の声はいまだに自粛されているものの、音楽サークルによる演奏が昼休みに行われて、ちょっとだけバンド演奏を聴いた時には、これぞ学生の音、キャンパスの音だなと嬉しくなってしまった。一つの音や演奏に向かう若い姿は、おじさん(おじいさん)になった身には羨ましく、眩しいのであった。

人間失格

 太宰治の『人間失格』を読んだ。初めて読んだのは大学生の頃だったように思うから、40年近く経って、もう一度読み直したわけだ。読んでみるとあまりにも衝撃的だった。それは現代の誰にでも当てはまるからだ。主人公は自分を誤魔化すように道化をして相手に合わせるようにして生きてきた。その結果、自分の内面を表すことの怖さを感じて、脆くて繊細な綱渡りのような生き方しかできない。その弱さから女性にはモテるが、酒と女性に入り浸っても満たされることはない。世間では受け入れられず、自分も世間を受け入れず、次第に薬物中毒になって、病院に入れられ、「人間失格」の烙印を感じる。

 現代でもネット社会の中で自分を押し殺して、自分らしさを掴めず、ガラスのような内面で自分がわからない、自分の満たされる時間は、満たされる事柄が何かを求めてさすらう人が多いように思う。果たして、世間とか、人間として認められるとか、自分が人間であるとはどういうことなんだろうか、をこの作品は読者に強く訴えている気がするのだ。

 では、自分はどうなんだろうか。人間として、満たされているのか。あるいは世間で受け入れられいるのか。毎晩酒を飲み、その日の出来事を忘れようとする姿は、酒に溺れて身を持ち崩す主人公とどこが違うというのだろうか。もう一度、自分はどうしたいのか、どうありたいのか、どう生きた証を示したいのか。アラ還になって読む『人間失格』は激しく胸を突き刺すのである。

最後の50代

 いよいよ50代最後の年となった。振り返れば、50代は楽しいことよりも苦しいことの方が多かったように思う。「50にして天命を知る」とは論語だが、いよいよ自分のことがわかり、また少しばかり老後を考えるようにもなってきた。天命には、自分の定めも含まれているのかもしれない。そう思うと、自分のできること、できないこと、やるべきことが少しは見えてきたように思う。

 さて、この一年、50代の締めくくりがどうなるか。温かく見守っていただければ幸いである。

インド関連の本、2冊

 この一週間でインド関連の本を2冊読んだ。それがなかなか面白いので、一言ここで紹介しようと思う。

『JK、インドで常識ぶっ壊される』(熊谷はるか著、河出書房)は現役の女子高生が書いた本だ。中学校3年の時に親の転勤で突然インドに行くことになり、現地のインターナショナルスクールに通うことになった普通の女子高生が、インドでの生活で、それまでのステレオタイプが壊れて、リアルなインドでの生活や風習に驚き、困惑し、そして、さまざまな経験を通して自分以外の世界に目をひらいて成長していく話だ。随筆で、今時の若者らしく「ぴえん」、「ぱおん」と感情が生々しく綴られるのだが、その表現力は豊かだ。特に貧困格差に関する後半の記述は生々しく、差し迫るものを読み手にも感じさせる。同世代の若者がここまで表現できることを大学生に知ってほしい。

 『日本でわたしも考えた』(パーラヴィ・アイヤール著、笠井亮平訳、白水社)はインド出身のジャーナリストが夫の転勤で日本に滞在していた4年間の経験を書いたものだ。流石にプロのジャーナリストの書いたものだけあって、どこの誰に取材し、それまでの資料収集についても詳しい。イギリス、中国、ベルギー、インドネシアと、学生時代からさまざまな諸都市に暮らした著者が東京での暮らしや日本文化、日本経済や政治、そして社会について光と影をしっかり伝えてくれる。日本の清潔さは勤勉さを褒められるのを読むのは心地よいが、外国人差別同和問題などのように、我々がとかくみないふりをしたり、蓋をしてしまいがちな現実にも鋭い筆を示す。しっかりとした文章であり、内容量も多いが、とにかく引き込まれてしまう。所々に、俳句が記されている。俳句への造詣が深い著者だが、日本人の我々も知らない俳句が、著者の心情を代弁しているのは、日本人以上に日本人の感性を理解している現れかもしれない。ゴールデンウィークの連休で読むことをおすすめしたい。

夢のモンスターデバイス

 先日ネットを見ていたら、MacOS7や8のシミュレーターがWebで見られるという。なんでもMacintosh Quadra 800のシミュレーションらしい。少しいじってみたが、驚いた。あの当時、1992年くらいだと思うが、これは最高スペックのMacだった。私は1991のボーナスで購入したMac IIciからQuadra 700にアップグレードした頃だ。あの頃は既存のマシンのCPUやケースを交換して、こうしたアップグレードができた。まさにSDGsの先駆けだった(価格は恐ろしく高かったけれど(苦笑))。

 このシミュレーターの秀逸さがわかるのは、中で再生できるQuickTime movieだ。当時のアップルのCMを見ることができる。今のスマホの精度やクオリティーから見ればおもちゃ程度だけれど、当時はそれに感動したものだ。カラースキャナーを使って、8ビットカラーをパソコンで扱うには300万円以上の投資が必要だったなんて、今の若い人には想像もできないだろう。そんな当時からすれば、今のiPadiPhoneはまさに夢のモンスターデバイスだ。片手でもてて、ポケットに入って、通信ができて、動画や静止画を簡単に扱えて、ゲームができて、オフィスソフトが使えて、バッテリーが1日持つ。

 タイムマシンに乗って、あの当時の自分に見せびらかしたいと思うのは、私だけだろうか?(笑)