大阪市長の愚

 大阪市長は学力テストの成績で、教員の給与査定をするという。つまり、学力テストの成績が悪いので、先生たちの給与を減らすということで、成績の悪いことの責任をとれというのがその主張らしい。あまりにも短絡的で愚かな主張にあきれてしまう。
 まず、教員はテストの成績をあげることが素晴らしいのであろうか?教育とは、一般企業のように、業績を数字ではかるべきものではない。なぜなら、効率を重視する企業活動と、教育活動は相反するものだからだ。
 教育とはすべからく「無駄」の蓄積である。そもそもschoolの語源は暇なのであり、食うに困らぬ人が時間を持て余しているので、真理の探求を始めたのが、古代のギリシャ哲学の始まりだ。そこに効率はない。効率を求めるのは、ビジネス系の実学であり、その影響で、今の日本の教育にも効率を求める声があるのだろう。
 しかし…である。効率的に覚えたことはすぐに廃れる。30年前にパソコンの学校や学部で覚えたフォートランを今でも使うだろうか?TOEICの対策をして、スコアを上げたからといって、英語ができる学生を育てているといえるのだろうか?
 教育で一番大切なのは、人間がどこで助けられるか、それこそどこでどんな風に役に立つかわからないことを経験させることだ。何がどこで役立つか、生きてくるかはわからない。その為にも幅広い知識と、それを有機的に生かす思考を育てなければならないはずだ。その観点から考えれば、いい先生とは、生徒たちに、学びの意味を説き、自主的に学ぶように導き、知識と思考の連動を練習させる先生だと思う。それをただのテストの点の上下で教員の善し悪しを決めるとはあまりにも馬鹿らしい。 

 仮に、大阪市長の主張が通ったら、どうなるだろうか。有能な先生は大阪市の公教育から出て行くはずだ。他の市町村か、あるいは私立の学校に出て行くだろう。そうなれば、さらに大阪市の教育は低下するのではないだろうか。
 教員は給与でも時間でも優遇されていると批判され、昔のように余裕がなくなった。そのため、教材開発や自分の研鑽をする時間がなくなっており、教員自体が先細っている。本当に教育をよくしたいのならば、逆に教員の待遇を優遇すると公言して、有能な教員を呼び、さらに彼らの能力が発揮できるように、環境整備をするのが行政の長だと思う。