砂の器と白い巨塔

 昨夜テレビで「砂の器」を見た。映画版や佐々木蔵之介バージョンのテレビを見たことがあるが、時代的な背景があるので、これをどうやって現代に翻訳するのか楽しみにしていた。なるほど、世間から冷たい目を浴びせられることを翻訳して、原作の柱をそのままにしたストーリー構成は見事だと思う反面、あれこれと演出をてんこ盛りして、まとまりに欠けるような気もした。松本清張の作品や「ゼロの焦点」も何度かテレビ化されているが、これも時代背景があるから現代に翻訳するのは難しい作品の一つかもしれない。

 もう一つ、今年の楽しみが「白い巨塔」だ。田宮二郎バージョンがあまりにも素晴らしいので、2004年の唐沢バージョンがどうしても軽く感じてしまった。今回は岡田准一バージョンとなり、医療的な背景も翻訳する必要があるから、どのようになるのかは楽しみだが、白い巨塔の描く閉鎖的な世界は今でも存在するようだ。

 テレビドラマや映画に限らず、古典作品の翻訳は難しい。文学作品はその典型だ。これは外国の文学の翻訳に限らず、同じ日本の作品でも古典を現代の言葉遣いに変えるだけでは、その意味を伝えることにはならない。何しろ言葉の持つ意味体系そのものが変化しているからだ。もちろん文化的なことや習慣的な変化もあるので、それを翻訳させるとしたら、なかなか難しい。例えば「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山ぎわ」なんて、現代の我々の感覚にしたら、どのように翻訳すべきだろうか。例えば、「春の夜明けって、夜勤明けのコンビニの買い物から見ると、ポワーンとして、なんかよくない?」と書くほうが、現代に合うとは言えないだろうか?この辺りの解釈と脚色が翻訳者に与えられた創造性の領域なのだと思う。