カタカナ表現について考える

 英語の教員をしていると、英語表現を好むように思われたり、早期英語教育を推奨したり、授業をすべて英語で行うことに賛成すると思われるのだが、上記のことは、私はすべて反対派だ(笑)。
 特に、最近憤るのが不必要な横文字の乱用だ。これは表記だけのことではなく、口頭表現も含む。マスコミや企業活動で、なぜか最近「ユーザー」という言葉が多用されているようだ。たとえば、ビデオでも「ユーザーが選んだベスト10」と表記がある。これは横文字を使うなら、せいぜいファンが好ましい。
 さらに、あるスポーツ選手がよく食べていることが報道されて、その食品を作る会社の広報が「その方が弊社商品のユーザー様であることをしり、光栄です」とテレビのインタビューで画面としているのをみて、「そこはお客様だろう!」と思わずつっこみを入れてしまった。 
 他にも芸能事務所のことでは、「弊社もコンプライアンス重視の観点から...」とコメントがあったが、これも「法令遵守の観点から」の方がよくわかる。
 究極なのは歌の歌詞だ。日本語の歌なのに意味が全く分からない。いや、そもそも聞いていても日本語の文節で切るようなリズムにしていないし、楽器の音の方が大きい。歌手の滑舌も悪くて聞き取れない(でも、本当の原因は私の耳が加齢でついて行くことができずに、華麗な歌声を受け入れられないのだ)。
 言語学的観点からは借用語という概念でとらえることが出来るのだが、本来、借用語を使うのは、母語にそれを表現する語彙項目がないか、あるいは一つのファッションとするためだというのが動機だ。インターネットのようにまったく新しい概念の場合は、前者に当たり、ネット用語はカタカナ語がそのままだ。だが、日本語の場合、後者が動機付けとして大きいように思う。新しい概念については明治の偉人たちのように翻訳する労力を忘れて、そのままカタカナ表記にしてしまう傾向があるようにおもう。インフォームドコンセントなどというカタカナ語を使う決定をした人の言語的配慮のなさを悲しく思う。
 日本語の美しさをもっと大切にしようではないか。安易にカタカナ語などを使わずにシャープペンシルといわずに、早川式鉛筆でいいではないか。スマホなんかではなく、電脳携帯で、いいではないか。さて、そうなるとブログはどうなる?不定期版電子的掲示板か?なんだか中国語っぽくなるな(爆笑)。
 カタカナにはひらがなと同じくらいの歴史がある。もしかすると、そういうDNAもあって、カタカナ表記にすることには、我々の抵抗感はないのかもしれない。