技術革新に思う

 1年ぶりに大阪出張をした。いつものEDIX関西での教育機材やシステムの見学だ。このイベントには毎年来ているが、1年経つと技術の進歩に驚かされる。数年前には、英検3級の面接対策がPCでできると聞いたのに、今ではAIやChatGPTの進歩で格段の差になっている。TOEICTOEFLのスピーキング対策までできるようになっているのだ。

 中でも驚愕だったのは、教員がPDFや動画をアップロードすると、ChatGPTが自動的に選択式の問題を作ってくれるというものだった。文字認識、音声認識をして、なおかつ膨大なデータと照合して、大切なところと思われる可能性の高いところを抜き出して、今度はそれと似たような、あるいは対比的な項目を選択肢にするのであろう。教員が自分の頭でやっていたことを瞬時にやってくれる。確かに便利ではある。

 しかし、ふと、考えさせらることもある。教員が自分の学生や生徒に「ここを理解してほしい」という箇所を自分で選ぶことこそ、教育に対する責任なのではないかと。確かに自動化は時間の短縮にはなるが、教育で根幹に関することを時間短縮していいものだろうか。

 技術革新はいつの時代も人間の価値観やライフスタイルを変えていく。それは仕方ないことだが、教育について推し進めていけば、「先生いらない」となり、教員の個性が反映される教育は、AIが取り仕切る画一的なオートメーションになってしまわないか、漠然とした不安に襲われるのである。