三つ子の魂、百までも

 友人との会話で、「三つ子の魂、百までも」という諺の話が出たのだが、この意味を今の若者たちはどう解釈するのだろうか。きっと「三つ子は100歳まで長生きする」と言うのであろう。だが、論理的に物事を考えるとその回答にはならないはずだ。

 そもそも、双子でさえ珍しいと言われることがあるのに、まして三つ子となるとさらに珍しいケースである。医療設備の整った現代ならいざしらず、たとえば100年前に三つ子が生まれて、育つ確率はかなり少なかったはずだ。

 さらに、その三つ子が100歳まで生きるということも100年前、あるいは50年前でも考えにくい。キンさん、ギンさんの双子姉妹が100歳を二人で迎えただけでも全国のニュースになったのだ。まして三子がみんな無事に100歳を迎えるというのは相当珍しい話であり、それが諺にまで残るということは考えられない。

 そうやって理詰めで考えれば、三つ子の意味は「三歳児の子供」と引き出せるはずだ。「三つ子の魂、百までも」というのは辞書には、「幼児の頃の記憶や性質は大人になっても変わらない」という意味が記されている。辞書を見るまでもなく、論理的な思考を持っていれば、意味が引き出せるはずだ。

 

 論理的に思考というのを授業でも話すのだが、その中で桃太郎が生まれた桃はどれくらいの重さだったかを考えなさいという課題を課す(笑)。今の新生児の重さから、桃太郎が2500gだっとして、それを保持するためのモモはどれくらいの大きさで、重さだったか。桃太郎の重さ2500g, それを守るための果肉と水分だけでも3kgと考えて、5.5kから、6kgと考えよう。新生児の大きさを守るには、かなりの大きさもあったはずだ。川から流れているにしても、それだけの大きな桃なら川の中央でないと浮き上がることもできなかったはず。おばあさんは川の中央まで取りにいったのだろうか?あるいは河岸に引っかかったところを捕まえたにしても、6kg弱の桃をお婆さんはどのように運んだのだろうか。

 馬鹿馬鹿しい話と笑われてしまうが、我々が当たり前だと思っている事象も、少し離れた視線で見てみると、矛盾点や疑問が生まれてくる。記憶力は人間よりも機械が優れているのだ。もう記憶力を争う時代ではない。これからは、論理的な思考をする力が人間に求められていると思うのである。