書斎でホームシアター

 以前購入して、ほとんど使っていなかったモバイルプロジェクターを引っ張り出してみた。まだ使えるかどうかのチェックも含めてだ。本棚を片付けて、書斎の壁面に大きな空間ができたので、もしかしたら、そこでホームシアターができるかもと思い試してみた。
 プロジェクターは縦型の扇風機の上に置くとちょうど良い。iPadからの出力をHDMIを選び、プロジェクターに接続すると、素晴らしい。まさにホームシアターのできあがりだ。だが、音だけは貧弱すぎる。本棚の上のBOSEのSoundLink Mini IIに接続したい。そうするには…、映像をVGAiPadから送り、音声はBluetoothで送ると、見事にできる。これで完璧…
 そう思って、huluの映画を映そうとするとうまくいかない。どうも外部出力はできないようだ。では、DAZNでスポーツ番組を、と試してみるが、DAZNHDMIの出力なら投影できるがVGAではだめだ。では、amazon prime videoなら…と試してみると、うまくいった。台風の轟音の中、気兼ねせず、大音量で、La La Landと海街diaryの二本を続けざまに見てしまった。
 ちょっとセットアップが面倒だが、なかなかよろしい。また書斎に引きこもる材料が増えてしまった…。

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研究者の矜持

 私も一応、研究者の端くれとして、活動している。大した研究はしていないし、業績も大したものではないので、生意気なことを言うことができない。

 ただ、どのような研究が素晴らしいのか、またどのような研究が評価できないのかを判断する力はあると思う。学会誌の編集長として、様々な論文を読み、その価値を評価するべき立場にあったし、いまでも編集委員の一人として、評価をする立場にある。だからこそ、頑張って論文を書いた人の気持ちを汲み取ってあげたいし、逆に、なんでもいいから、数を稼ぎたいという人のものは評価したくないと思う。

 その中で、悲しいニュースをネットで読んだ。なんでもハゲタカジャーナルと呼ばれる、業績稼ぎのための学会誌もどきに、日本の研究者が多数投稿しているというのだ。学問に携わるものとして、それはダメでしょうと思う。確かに今は業績至上主義で、単に論文の数や学会での口頭発表の数で評価され、それが就職や研究費の分配にまで影響するので、少しでも業績を作りたい気持ちはわかる。だが、果たして、それで本当に学問的な貢献をすることになるのだろうかと疑問に思う。

 ちょっと前には、お金さえ出せば、博士号を出すというインチキな大学院が海外にあって、そこで学位をとったという日本人研究者もいて、中には有名な人もいた(その後、その方はまともなところで博士号を取得したようだが)。私は博士号を持たないので、お金で買えるなら美味しい話じゃないかと思うこともあったが、結局、長い目でみれば、いつまで立っても、負い目を感じることだし、堂々と学術分野で生きるものとして歩くことができない。

 久しぶりに「矜持」という言葉を痛感したニュースであった。

ニール・サイモン追悼

 今朝のネットニュースで、アメリカの劇作家、ニール・サイモン氏が逝去したことを知った。うちの職場にはアメリカ演劇の専門家がいるので、その文化的功績は後で聞こうと思うのだが、個人的には、彼が脚本を書いた一本の映画が忘れられない。
 それはThe Goodbye Girlという作品だ。1977年の映画で、リチャード・ドレイファスとマーシャ・メイスンが主人公の映画だ。売れない俳優と彼氏にいつもいいところで逃げられてしまうシングルマザーのダンサーの話。心温まるヒューマンコメディーで、初めて見たのは学生時代に授業をサボって見に行った東銀座の小さな映画館だったと思う。笑いの中に涙あり、人の優しさあり、後悔あり、と人間の感情を素晴らしく、ニューヨークのアパートと普通の暮らしの風景の中に豊かに描いた作品だ。この映画でリチャード・ドレイファスアカデミー賞も得ている。ちなみに、リチャード・ドレイファスとマーシャ・メイスンはその後、「第二章」という映画でも共演していたはずだ。この映画は何度も何度も見て、英語も覚えたし、スパゲティーにはキャンティーも合うということも学んだ。アメリカの素顔のようなものを肌で感じることができる、そう思える映画だった。だから、自分でもその後、DVDを買っている。もう一度、個人的な追悼をしながら、見直してみようか…。

敵機来襲と、基地攻撃

 まあ、物騒なタイトルではあるが、毎朝の庭掃除をするときに、いつも蚊に襲われる。長ズボンをいつも履くようにしているので、刺されるのは腕と顔だ。顔によってくるときには、いつもあの独特のぷーんと言う音をたててくるのだが、うれしさといらだたしさが半々だ。うれしさというのは、まだモスキート音が自分の耳に入ると言うことであり(笑)、いらだたしさは、襲われるいらだたしさである。
 元々生き物の命を必要もなく奪うことには抵抗があるのだが、自分を襲う生き物は、正当防衛の名の下に、こちらも対処する。蚊がよってくると頭の中には「敵機来襲」という言葉がよぎり、自動的に、総員配置せよ、という文句が頭の中に響く。あちこちをパチン、パチンとたたいては、我が血を吸う蚊を叩き潰すのである。だが、敵も素早い。たたく寸前で離脱して、逃げるものも多い。。かくて、私の腕や顔には、敵の攻撃をうけて、かゆくなり、その部位は小高くなるのである。
 だが、蚊はまだかわいい戦闘機みたいなものだ。素早いが攻撃能力は限られている。怖いのは攻撃機だ。我が家の庭の攻撃機は、蜂だ。いつもは攻撃機は一機ないし、二機であり、こちらから攻撃を仕掛けない限り、偵察行動のみで、実害はない。
 ところが、昨日は玄関先にて、空襲下と思うほど、攻撃機が集まっている。さすがに家人も声をあげたほどだ。原因を探ろうとすると、なんと玄関脇の門灯に、彼らの前進秘密基地、すなわち巣を作ろうと多くがあつまり、周囲を防衛するために多数の蜂が飛来していたというわけである。こんなところに基地を作られては、我が家はあっというまに攻撃され、殲滅してしまう。作られてしまっては、どこかの国が島を基地にしてしまったみたいに手遅れだ。そこで、人道的には許されていないのだが、自己防衛という美名の下、化学兵器を使ってしまった。蜂対策スプレーだ。シューーっと吹きまくり、次々に墜落していく敵機。気持ちいいような、申し訳ないような…。あとには、彼らの遺骸があちこちに…散乱した。アリさんがこういうときには処理をしてくれるのだが、化学兵器の犠牲になった蜂にはアリも寄りつかない。かくして、申し訳ない哀悼の意を表しつつ、履いて、ゴミ袋の中に。冥福を祈りたい。
 虫との格闘であれ、人間同士の格闘であれ、自分から命を奪いたいとは思わないと思う。だが、そこに何かしらの利害が発生したとき、人は「防衛」という名の下に戦う。自らの命、健康、財産、家族をまもるという名目の下に。誰だって、巻き込まれたくないのだが、巻き込まざるを得なくなるのが、運命なのかもしれない。

Huawei Nova 2 Lite 購入

 今年のボストン出張で、現地simを購入せず、電話番号が取得できないためuberが使えなかった。かなり不便だった。今回からモバイルルーターを利用する方式にしたのだが、まさかuber依存があそこまで進んでいるとは露程にも考えず、失敗してしまった。次回からはsimを必ず買おう。。
 と、終わってしまうのではない。問題はここからだ。所有しているiPhone8 Plusはsimフリーなのだが、簡単にsimを変えて、電話番号を変えるとLineが使えない。設定が必要となり、煩雑になる。そのため、日本で使っているiPhone8 Plusは機内モードのまま、wifiだけで運用となる。そうなると、もう一台携帯電話が必要だ。
 次の一台をどうするか。iPhoneSEという手もあるのだが、そもそも治安の悪い国で使う場合だと、iPhone自体が狙われてしまう。たとえ、モデル遅れのiPhoneSEであっても、iPhoneiPhoneだ。iPhoneを使うこと自体にリスクがある。
 そうなると、格安アンドロイドを使えるようにした方がいい。Amazonで見てみると8000円程度のものからあるのだが、AndoridOSのバージョンが古い。となると、狙い目はhuaweiのものとなる。カメラもそこそこだし、画面も広い。2万円を切って購入できる。いろいろと考えた結果、Huawei Nova 2 Liteを購入した。iPhoneXのように顔認証をしてくれるし、その反応は良い。画面もほとんど降るディスプレイで、いわば格安のiPhoneXと言えるだろう。カメラの評価もそこそこのようだから、海外で使うのなら、これで良しである。
 国内でもひとつ余ったsimがあるので、セカンドスマホとして、遊んでみようと思う。

 

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大阪市長の愚

 大阪市長は学力テストの成績で、教員の給与査定をするという。つまり、学力テストの成績が悪いので、先生たちの給与を減らすということで、成績の悪いことの責任をとれというのがその主張らしい。あまりにも短絡的で愚かな主張にあきれてしまう。
 まず、教員はテストの成績をあげることが素晴らしいのであろうか?教育とは、一般企業のように、業績を数字ではかるべきものではない。なぜなら、効率を重視する企業活動と、教育活動は相反するものだからだ。
 教育とはすべからく「無駄」の蓄積である。そもそもschoolの語源は暇なのであり、食うに困らぬ人が時間を持て余しているので、真理の探求を始めたのが、古代のギリシャ哲学の始まりだ。そこに効率はない。効率を求めるのは、ビジネス系の実学であり、その影響で、今の日本の教育にも効率を求める声があるのだろう。
 しかし…である。効率的に覚えたことはすぐに廃れる。30年前にパソコンの学校や学部で覚えたフォートランを今でも使うだろうか?TOEICの対策をして、スコアを上げたからといって、英語ができる学生を育てているといえるのだろうか?
 教育で一番大切なのは、人間がどこで助けられるか、それこそどこでどんな風に役に立つかわからないことを経験させることだ。何がどこで役立つか、生きてくるかはわからない。その為にも幅広い知識と、それを有機的に生かす思考を育てなければならないはずだ。その観点から考えれば、いい先生とは、生徒たちに、学びの意味を説き、自主的に学ぶように導き、知識と思考の連動を練習させる先生だと思う。それをただのテストの点の上下で教員の善し悪しを決めるとはあまりにも馬鹿らしい。 

 仮に、大阪市長の主張が通ったら、どうなるだろうか。有能な先生は大阪市の公教育から出て行くはずだ。他の市町村か、あるいは私立の学校に出て行くだろう。そうなれば、さらに大阪市の教育は低下するのではないだろうか。
 教員は給与でも時間でも優遇されていると批判され、昔のように余裕がなくなった。そのため、教材開発や自分の研鑽をする時間がなくなっており、教員自体が先細っている。本当に教育をよくしたいのならば、逆に教員の待遇を優遇すると公言して、有能な教員を呼び、さらに彼らの能力が発揮できるように、環境整備をするのが行政の長だと思う。

君が代

 一昨日、突発的に思い立って、帰省中の息子とナゴヤドームに野球観戦に行った。我が家はドームに近いので、行こうと決めてから、車で15分ほどでドームについてしまう。久しぶりに生の野球観戦だ。
 試合前、国歌斉唱の時間となった。観客は起立、選手もベンチ前に起立だ。君が代と言えば、子供の頃は小学校でも中学校でも斉唱した記憶があるのだが、最近はないようだ。
 君が代にはいろいろな考え方の人がいるから、観客でも全員起立しているわけでもない。まして、歌う人はそれほど多くない気がしたが、我が家は私も息子も大きな声でとはいかないまでも、普通の声で歌う。いつも思うのだが、外国人選手でも、君が代の時間には敬意を表してくれる。それなのに、自国民は…と思ってしまう。
 国旗と国歌には血塗られた歴史もある。それはどの国でも同じではないだろうか。米英仏の国旗と国歌にどれほどの血塗られた歴史があるだろう。被害者にもなり、加害者にもなっている。私は、だからこそ、その悪い歴史も忘れることのないように国旗と国歌は受け継ぐべきと考える。
 さきほどもいったが、これは私個人の考えで、誰かに強要するべきことでも強制するべきことでもない。だが、とかく、国旗と国歌については左翼も右翼も極端に考えが振れているのはどうなんだろうと思う。わりと穏健な一人の日本人として、こういう考え方もあるとここに記しておきたかった。

 

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