他人の褌で相撲をとる

 昨日授業で学生に「他人の褌で相撲をとる」と意味を聞いたら、誰も答えられなかった。皆、聞いたこともないし、知らないという。もちろん説明はしたのだが、大切なのは昭和のおっさんたちはこのような表現を当たり前に使い、しかもそんなおっさんたちが社会の中で力を持っているということだ。「令和の時代に昭和の表現を使うなんて、知らんがな!」と令和の若者の声も正しいのだが、いかんせん、それを面と向かって言えない。令和の若者も昭和の表現をいささか勉強する必要がある。

 社会の中では権力構造が否応なく存在する。その時、弱いものが強いものに合わせる必要がどうしても出てくる。多言語社会でも、マイノリティーがマジョリティーの言語を身につけて、多言語使用者にならなければ生きていけない。

 今や企業が「コミュニケーション能力のある学生」が欲しいという。外国語の話ではない、ネイティブな日本語の話だ。どうしてこんなことになるかというと、職場での言葉が通じないからである。先ほどの「他人の褌で相撲をとる」とか、「全員野球で行こう」が通じないからかもしれない(笑)。そこで、若者の方が合わせろということなのだろうが、それもまた理不尽だ。

 だが、問題はそこだけではない。あまりにも表層的なことでしか、意味をとらえられない若者が増えているのも事実だ。「ちょっと暑くない?」とエアコンの近くにいる人に言ったとしよう。皆さんはどう反応するだろうか。学生にこの質問をすると多くが、「暑いですね」とか「いえ、そうでもないです」と返事をするだけらしい。だが、真意はそのエアコンの設定を変えて欲しいというリクエストだ。若者からすると、「じゃあ、はっきり言ってよ」となるが、おじさん・おばさんからすれば「直接言うと角が立つから、間接的にいうんじゃないか。それが丁寧だろう」と反論が出るだろう。

 現在のコミュニケーション問題はこうして、お互いに前提がずれていて、しかも言語表現の意味の捉え方が変化しているからだ。簡単に日本語力の問題などとは片づけられないし、若者に押し付けるばかりのことでもない。おじさん・おばさんも「若者の理解する範囲はこうだ」と改めて認識して、適切に表現をしていくことも求められていると言えるだろう。