村上春樹、初期4部作読破

 この1ヶ月で、村上春樹のデビュー作『風の音を聴け』から、それに続く『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』、『ダンス、ダンス、ダンス』と読破した。村上作品についてはここでも書いたことがあるが、初期からのこの4部作を読み終わると、村上ワールドというのはずっと変化がないことに気づく。私なりの解釈だけれど、テーマは現実とパラレルな現実。そのパラレルな現実は幻想的な事象として描かれているけれど、それは私たちの内的な精神世界で、物理的な現実社会ではないけれど、我々の誰もが空想とか、夢とか妄想とかで抱く世界であり、それは一人称の中では現実なのだ。

 そして、村上作品には食べることとセックスが描かれることが多い。それも、ここかしこで現れる「しっかりとした食事」と寝たい女性と寝る「しっかりとしたセックス」が描かれる。きっとこれこそ、精神世界と肉体世界をつなぐインターフェースなのだろう。食も性も物理的であり、精神的な充実感を求める。どちらか一方だけでは満たされない。ジャンクフードではお腹がいっぱいになっても、心の飢餓感は拭えない。成り行きのセックスなら、村上作品ではセックスをしないのだ。

 食と性は生きることの証でもあろう。物理的に、社会的な現実を生きながら、自分の内的な精神世界でも生きる。そのエネルギー源と、生きている証を食と性で実感する。村上作品を読むとそう感じてしまうのだ。『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』はそれが端的に記されているのだと思う。

 村上春樹の世界は一貫しているけれど、ある意味変わりがないし、そこから社会を変えていこうというメッセージもない。あくまでも私小説の世界である。耽美的な美しさを描くわけでもない。きっと、そういうところでノーベル文学賞の候補に噂されることはあっても受賞まではいきつかないのかもしれない。

 世界中で村上作品が評価されるのは、我々が「現実」として認識するものが、果たして本当の現実かどうか怪しいと人々が懐疑的になっているからなのかもしれない。一見、馬鹿馬鹿しい空想世界が実はネット社会では現実であり、現実だと信じていたものが実はフェイクニュースのように現実ではない。我々が生きている世界とは、現実と非現実の混在する世界である。村上作品はそれを小説の中で表現していて、それを1980年代に予言的に表現してきた、と考えると彼の評価もうなづける。

 私は文学の専門ではなく、言語学。文学とは一体どんなことかわからないけれど、文学というのは、きっとその作品をどのように自分との対比で、作者も考えていなかった(かもしれない)価値観を見出すことなのではないだろうか。優れた文学作品とは、その価値観を無限に引き出してくれるものかもしれない。