形のカタチ

 最近、テレビを見ていると不必要に「…のカタチになります」と聞こえる。極論をすれば、「今日、…事件の容疑者が逮捕されたカタチになります。警察は犯人の容疑について認否を明らかにしていないカタチになります。容疑者は来週にも送検されるカタチになります」と、こんな感じだ。もしかすると、前にもこの愚痴をここで書いたかもしれない。それだけ耳につくのだ。まさに耳障りである。

 「カタチ」にしろ、「…させていただく」にしろ、過度な間接表現が多すぎる。しっかりと言い切らないのである。間接的で言い切らない表現は丁寧表現に繋がるので、その影響かもしれないが、言い切りをして何か反論されることや、目立つことを嫌う風潮があるからかもしれない。その反動がSNSでの容赦ないバッシングになるのだろうか。

 言葉に関する感性がどんどん失われていく気がする。型にハマった表現だけをすれば安心感は得られるだろうし、ビジネスの場では必要だろう。しかし、いつしか、それが思考の形式化につながってしまうのではないだろうか。新しい表現もなく、ただただAIに乗っ取られていくのだろうか。

 私は一昨晩の夢の中で、妻に「心がつねられるんだよ!」と叫んだ(笑)。その話をしたら、家族には「面白い表現だ」と反応があったが、AIはこんな表現も作ってくれるのだろうか。

 カタチばかりに縛られるのは機械よりも人間になってしまったら…そう考えるだけで恐ろしい。